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(6) 弟が示すフロローの道:四季版ノートルダム

原作では、フロロ(クロード・フロロ)の弟ジャンが登場します。物語の年(1482年)時点で、弟は16歳の学生。兄と違って放蕩者。結構登場シーンの多いキャラではあるものの、ストーリーの骨格部分に絡んでこないためか、派生作品にはあまり登場しません。

そんな弟が四季版で登場!!しかも放蕩者設定!(四季版の名前は「ジェアン」)
弟、キターーーーーーーーーッッ!!(≧∇≦)

・・・はい、もう何でも嬉しいわけです(笑)。

しかし、原作と同じなのはその程度。まずは原作のジャンについて、ちょっと紹介しましょう。

物語におけるジャンの役割は、大聖堂にいる兄クロードの姿を描き出し、友人フェビュス(フィーバス)との交流を通じて街の様子を読者に見せ、別々の世界であるそれらを絶妙につないでいます。特に、兄の人間らしい部分を読者に感じさせる重要な役割を担っています。

神学などの学問にいそしんできたクロード・フロロは、19歳の時に上流ブルジョワの両親をペストで失くし、いきなり家長となります。その時まだ乳飲み子だった弟のジャンが残されるのですが、それまで勉学に没頭してきた彼は弟のことがかわいくてたまらなくなり、全力で弟を育てようと誓います。

そんな頃、大聖堂の前に捨てられていた4歳頃の子供がカジモド。クロードは万一自分がいなくなった時に幼い弟ジャンがこのようになるのではと思うと、醜い姿をしていたその子を見捨てることが不憫になり、また、子供を拾うことで弟のための徳のポイントをためておきたいという気持ちもあって、クロードはカジモドを拾うことにします。

つまりその行動は、彼の弟への深い愛情を示しているのですね。

一方のジャンはというと、兄が期待したようには育たず、学生となった彼は遊んでばかりでしょっちゅう兄に金を無心しにやってきます。クロードは弟にお説教しつつも、しぶしぶ金を渡しています。やっぱりこの辺でも、クロード・フロロの人間らしさを感じます。




さて、四季版のクロードとジェアンはというと、「みなしご」設定で、二人の年齢も近い感じ。二人は大聖堂で育ちますが、真面目な兄に対して、弟は遊び者。女を連れ込んで、兄に遊ぶようけしかけたりします。クロードは、結果的に女のことを大聖堂の司祭に隠さず注進。これって冷たいことのようにも見えますが、弟の教育という観点から見ても、彼の行動は間違ってませんよね。

しかし、司祭は弟に破門を言い渡します。驚くクロード、でもどうしようもありません。ジェアンはジプシーと出て行ってしまいます。

そして数年後、ジェアンから手紙が届きます。兄が急いで駆けつけてみると、ジェアンの彼女は流行り病でなくなり、弟もまた病に侵されていました。ジェアンは自分の赤ん坊をクロードに託します。赤ん坊を見て「怪物だ!」と驚く兄に、「頼むんじゃなかった」と嘆く弟。そして弟は息絶えます。

クロードは、これは神からの試練だと思い、そしてこの子を自分のように正しい人間に育てようと決心します。



・・・まさかの、フロローとカジモド血縁設定!(伯父と甥)
・・・でもその割には、血縁設定はほぼ軽やかにスルー(笑)。弟のことは少し出てきますが、「お前は甥だから」みたいなセリフは全然ありません。(最後のほうで「息子のように思っているよ」とフロローは言いますが、それは別に血縁じゃなくても育ての親のフロローが言ってもおかしくないことですしね)

原作では、そもそもカジモドのほうがジャンより年上です(カジモド20歳、ジャン16歳)。血縁関係はありません。
四季版とアニメ版は、冒頭部分は全く別。アニメ版では、フロローのジプシー狩りと彼の冷酷さが語られます。一方四季版は冒頭で弟を登場させ、冷酷な一面は影を潜めました。真面目で人間的な面を持ったキャラクターです。そのはずなのですが・・・。

出て行った弟のもとへ駆けつけた兄クロードは、優しく弟に一緒に帰ろうと諭します。しかし、弟の子供カジモドの姿を見た時に弟に「悪人は罰を受ける」と言います。この言葉、ちょっと違和感あるんですよね。

「これは罰だ」という言い方ならわかります。それは「今までお前が行ってきた所業に対して」ということだから。でもこの状況でこの表現だと、愛してきた弟を「悪人」と言ってるわけで、そんな言い方はないんじゃないかと・・・。
さらに、引き取ることにした赤ん坊に「できそこない」というひどい名前を与えるフロロー。

アニメでもフロローがこの名を与えるのですが、それは彼の冷酷さをさらに際立たせ、とても効果的な要素になっています。
しかし四季版では、フロローはカジモドを「正しい人間になるように」と思って育てることにしたわけです。何より自分の実の甥ですよ!

そんな名前で「正しい人間になれ」って言われても・・・(困)。(←でもカジモドはいい奴に成長しましたけどね)

繰り返しますが、四季版フロローは神父。こんな名前をつけたら人間性を疑われて、神父としての信頼も将来性もがた落ちじゃないでしょうか。フロローの基本設定はアニメ版とは根本的に違うのに、アニメ版の流れをそのまま持ってきているので、ちょっとちぐはぐな感じになっている気がします(ちなみに原作での名前の意味合いは違います←後述)




フロローの言葉で、もう一つ。
フロローがカジモドに、守ってやるから外へ出るなと諭すシーン。そこでフロローはカジモドにゆっくりこう言います。
「お前は醜い 気持ち悪い」

これって、「お前は気持ち悪い」っていう文ですよね・・・。しぐさや言葉なども含めて「物」に対して使うならわかりますが、一人の人間自身に対して「気持ち悪い」って言うのは、その人の全否定みたいなものじゃないでしょうか・・・。これを聞いた時、心が凍ったみたいに悲しくなりました。しかも、カジモドはその言葉を復唱するんですよね(;;)。

「醜い」というのは、まだ理解できます。単に容姿のことを語ってるだけから。確かにダイレクトな表現ですが、意味的に考えれば「お前は器量よしじゃないけど、その分人に優しくするんだよ」と親が我が子に愛情を持って語ることは今でも普通にありますよね。

原文の英語は「You are deformed, and you are ugly」。
アニメ版にも同じ表現があり、日本語訳は「お前は人と違う。お前は醜い」。
これが意味としても表現としても、ちょうどいいものだと思いますけど、四季版はなぜこの訳にしなかったんでしょうね・・・。字数や語感的な問題なら、「お前は醜い 人とは違う」にすればだいたい解決できたのでは・・・。
今からでもいいので、ここの表現変えてほしいんだけどなあ・・・。



前半、フロローをどう捉えればいいのかわからなくて、正直かなり戸惑いました。特に最初のほうは、フロローは基本的には真面目な人間(カタブツ・レベルだけど)ですが、出てくる言葉(歌詞)が時々それにそぐわないんですよね。

じっくり考えてみて、結局のところ、四季版もフロローの性格設定はアニメとあまり変わってないのかもしれないなと思っています。

四季版のフロローは冒頭で「いい奴」寄りの設定だし、物語の最初でフロローが堕ちてしまうような感じはないんです。だからその流れの通りにフロローを捉えていたのですが、そうすると、時々闇な言葉を発するフロローがわからなくなるんですね。でも、既に最初からダークな性格だと捉えると、そういうフロローの言動がすんなり理解できる気がしました。




四季版でジェアンの話はそれ以降ほとんど出てきませんが、クライマックシ・シーンでフロローがカジモドと言い合っている時に弟の話をします。「弟を愛していた」「でもあいつは邪悪だった、弱かった」と。

この「邪悪」っていう言葉も、ちょっと違和感ありました。「邪悪な心」ならわかるけど、人間自身に対して「あいつは邪悪な奴」なんて普通使いませんよね(ガチな悪魔レベルじゃないかな)。その相手に愛情を感じない言葉なんですよね・・・。

いろいろ考えてみると、四季版では弟の話が出てくると、フロローは時々言葉でネガティブ要素を発揮してる気がします。
原作で弟が示したのは兄の良い一面だったのに対し、四季版では兄を悪い方向へ持っていってる感じですね。
作品によって、いろいろ描き方が違うのはおもしろいなと思います。


(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか [←前] ◆
[次→] (7) カジモドの名前の本当の意味




四季版「ノートルダムの鐘」感想 (2017)

(1) 関連作品の概要
(2) カジモドの結婚
(3) エスメラルダとクロパンの火花な関係
(4) 神父と判事は似て非なるもの
(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか
(6) 弟が示すフロローの道
(7) カジモドの名前の本当の意味
(8) 陽ざしの中へ


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Mew

Author : Mew

2013年来日公演したミュージカル
ノートルダム・ド・パリ」、及びフレンミュージカルを応援中!ノートルダムでオリジナル・グランゴワールを務めたブリュノ・ペルティエも熱く応援中!


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