ノートルダム・ド・パリ応援隊

We love Notre-Dame de Paris. We love French Musical.

 

Entries

(6) 弟が示すフロローの道:四季版ノートルダム

原作では、フロロ(クロード・フロロ)の弟ジャンが登場します。物語の年(1482年)時点で、弟は16歳の学生。兄と違って放蕩者。結構登場シーンの多いキャラではあるものの、ストーリーの骨格部分に絡んでこないためか、派生作品にはあまり登場しません。

そんな弟が四季版で登場!!しかも放蕩者設定!(四季版の名前は「ジェアン」)
弟、キターーーーーーーーーッッ!!(≧∇≦)

・・・はい、もう何でも嬉しいわけです(笑)。

しかし、原作と同じなのはその程度。まずは原作のジャンについて、ちょっと紹介しましょう。

物語におけるジャンの役割は、大聖堂にいる兄クロードの姿を描き出し、友人フェビュス(フィーバス)との交流を通じて街の様子を読者に見せ、別々の世界であるそれらを絶妙につないでいます。特に、兄の人間らしい部分を読者に感じさせる重要な役割を担っています。

神学などの学問にいそしんできたクロード・フロロは、19歳の時に上流ブルジョワの両親をペストで失くし、いきなり家長となります。その時まだ乳飲み子だった弟のジャンが残されるのですが、それまで勉学に没頭してきた彼は弟のことがかわいくてたまらなくなり、全力で弟を育てようと誓います。

そんな頃、大聖堂の前に捨てられていた4歳頃の子供がカジモド。クロードは万一自分がいなくなった時に幼い弟ジャンがこのようになるのではと思うと、醜い姿をしていたその子を見捨てることが不憫になり、また、子供を拾うことで弟のための徳のポイントをためておきたいという気持ちもあって、クロードはカジモドを拾うことにします。

つまりその行動は、彼の弟への深い愛情を示しているのですね。

一方のジャンはというと、兄が期待したようには育たず、学生となった彼は遊んでばかりでしょっちゅう兄に金を無心しにやってきます。クロードは弟にお説教しつつも、しぶしぶ金を渡しています。やっぱりこの辺でも、クロード・フロロの人間らしさを感じます。




さて、四季版のクロードとジェアンはというと、「みなしご」設定で、二人の年齢も近い感じ。二人は大聖堂で育ちますが、真面目な兄に対して、弟は遊び者。女を連れ込んで、兄に遊ぶようけしかけたりします。クロードは、結果的に女のことを大聖堂の司祭に隠さず注進。これって冷たいことのようにも見えますが、弟の教育という観点から見ても、彼の行動は間違ってませんよね。

しかし、司祭は弟に破門を言い渡します。驚くクロード、でもどうしようもありません。ジェアンはジプシーと出て行ってしまいます。

そして数年後、ジェアンから手紙が届きます。兄が急いで駆けつけてみると、ジェアンの彼女は流行り病でなくなり、弟もまた病に侵されていました。ジェアンは自分の赤ん坊をクロードに託します。赤ん坊を見て「怪物だ!」と驚く兄に、「頼むんじゃなかった」と嘆く弟。そして弟は息絶えます。

クロードは、これは神からの試練だと思い、そしてこの子を自分のように正しい人間に育てようと決心します。



・・・まさかの、フロローとカジモド血縁設定!(伯父と甥)
・・・でもその割には、血縁設定はほぼ軽やかにスルー(笑)。弟のことは少し出てきますが、「お前は甥だから」みたいなセリフは全然ありません。(最後のほうで「息子のように思っているよ」とフロローは言いますが、それは別に血縁じゃなくても育ての親のフロローが言ってもおかしくないことですしね)

原作では、そもそもカジモドのほうがジャンより年上です(カジモド20歳、ジャン16歳)。血縁関係はありません。
四季版とアニメ版は、冒頭部分は全く別。アニメ版では、フロローのジプシー狩りと彼の冷酷さが語られます。一方四季版は冒頭で弟を登場させ、冷酷な一面は影を潜めました。真面目で人間的な面を持ったキャラクターです。そのはずなのですが・・・。

出て行った弟のもとへ駆けつけた兄クロードは、優しく弟に一緒に帰ろうと諭します。しかし、弟の子供カジモドの姿を見た時に弟に「悪人は罰を受ける」と言います。この言葉、ちょっと違和感あるんですよね。

「これは罰だ」という言い方ならわかります。それは「今までお前が行ってきた所業に対して」ということだから。でもこの状況でこの表現だと、愛してきた弟を「悪人」と言ってるわけで、そんな言い方はないんじゃないかと・・・。
さらに、引き取ることにした赤ん坊に「できそこない」というひどい名前を与えるフロロー。

アニメでもフロローがこの名を与えるのですが、それは彼の冷酷さをさらに際立たせ、とても効果的な要素になっています。
しかし四季版では、フロローはカジモドを「正しい人間になるように」と思って育てることにしたわけです。何より自分の実の甥ですよ!

そんな名前で「正しい人間になれ」って言われても・・・(困)。(←でもカジモドはいい奴に成長しましたけどね)

繰り返しますが、四季版フロローは神父。こんな名前をつけたら人間性を疑われて、神父としての信頼も将来性もがた落ちじゃないでしょうか。フロローの基本設定はアニメ版とは根本的に違うのに、アニメ版の流れをそのまま持ってきているので、ちょっとちぐはぐな感じになっている気がします(ちなみに原作での名前の意味合いは違います←後述)




フロローの言葉で、もう一つ。
フロローがカジモドに、守ってやるから外へ出るなと諭すシーン。そこでフロローはカジモドにゆっくりこう言います。
「お前は醜い 気持ち悪い」

これって、「お前は気持ち悪い」っていう文ですよね・・・。しぐさや言葉なども含めて「物」に対して使うならわかりますが、一人の人間自身に対して「気持ち悪い」って言うのは、その人の全否定みたいなものじゃないでしょうか・・・。これを聞いた時、心が凍ったみたいに悲しくなりました。しかも、カジモドはその言葉を復唱するんですよね(;;)。

「醜い」というのは、まだ理解できます。単に容姿のことを語ってるだけから。確かにダイレクトな表現ですが、意味的に考えれば「お前は器量よしじゃないけど、その分人に優しくするんだよ」と親が我が子に愛情を持って語ることは今でも普通にありますよね。

原文の英語は「You are deformed, and you are ugly」。
アニメ版にも同じ表現があり、日本語訳は「お前は人と違う。お前は醜い」。
これが意味としても表現としても、ちょうどいいものだと思いますけど、四季版はなぜこの訳にしなかったんでしょうね・・・。字数や語感的な問題なら、「お前は醜い 人とは違う」にすればだいたい解決できたのでは・・・。
今からでもいいので、ここの表現変えてほしいんだけどなあ・・・。



前半、フロローをどう捉えればいいのかわからなくて、正直かなり戸惑いました。特に最初のほうは、フロローは基本的には真面目な人間(カタブツ・レベルだけど)ですが、出てくる言葉(歌詞)が時々それにそぐわないんですよね。

じっくり考えてみて、結局のところ、四季版もフロローの性格設定はアニメとあまり変わってないのかもしれないなと思っています。

四季版のフロローは冒頭で「いい奴」寄りの設定だし、物語の最初でフロローが堕ちてしまうような感じはないんです。だからその流れの通りにフロローを捉えていたのですが、そうすると、時々闇な言葉を発するフロローがわからなくなるんですね。でも、既に最初からダークな性格だと捉えると、そういうフロローの言動がすんなり理解できる気がしました。




四季版でジェアンの話はそれ以降ほとんど出てきませんが、クライマックシ・シーンでフロローがカジモドと言い合っている時に弟の話をします。「弟を愛していた」「でもあいつは邪悪だった、弱かった」と。

この「邪悪」っていう言葉も、ちょっと違和感ありました。「邪悪な心」ならわかるけど、人間自身に対して「あいつは邪悪な奴」なんて普通使いませんよね(ガチな悪魔レベルじゃないかな)。その相手に愛情を感じない言葉なんですよね・・・。

いろいろ考えてみると、四季版では弟の話が出てくると、フロローは時々言葉でネガティブ要素を発揮してる気がします。
原作で弟が示したのは兄の良い一面だったのに対し、四季版では兄を悪い方向へ持っていってる感じですね。
作品によって、いろいろ描き方が違うのはおもしろいなと思います。


(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか [←前] ◆
[次→] (7) カジモドの名前の本当の意味




四季版「ノートルダムの鐘」感想 (2017)










(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか:四季版ノートルダム

様々に違いのあるノートルダム作品群ですが、4作品の中で原則的な共通項というものがあります。(**今からラストをネタバレします。ご注意ください**)

1709.jpg
↑ノートルダム大聖堂内

ジプシー娘エスメラルダを愛してしまったフロローは、自分を受け入れようとしないエスメラルダを死に追いやろうとします。しかし最後にはフロロー自身が死亡。アニメ版のみいわば「事故死」ですが、原作もフレンチ版も四季版も、フロローはカジモドによって殺されます。

しかし、カジモドが育ての親のフロローを手にかける理由はそれぞれ違います。何が違うのか、その違いの理由は何なのでしょうか。

四季版のクライマックス: 
エスメラルダを捉えたフロローは、牢屋で彼女に「自分のものになれば、フィーバスともども命を助ける」と迫ります。
その翌日人々が見守る中、エスメラルダが処刑台にくくりつけられ、フロローがそこで死刑の判決文を読み上げます。「悔い改めれば死刑は免れる」と言い、そして小声でエスメラルダに自分が言ったこと(自分のモノになれ)の返事を問います。彼女はフロローにつばを吐きかけると、怒ったフロローは、そばにいた死刑執行人から松明を取り上げ、自分で火刑用の薪に火をつけます(原作&フレンチ版では絞首刑ですが、アニメ版&四季版では焚刑)。
そこへカジモドが現れてエスメラルダを救い出し、大聖堂の塔にある自分の部屋に連れて行きます。しかし、エスメラルダははかなく死亡。その部屋にフロローがやってきます。

カジモドはエスメラルダの死を「お前のせいだ」とフロローを責め、フロローは「義務だったのだ」と答えます。

私は、ここで「お前」っていう言葉を使うのはちょっと早いなあ、と思っていました。日本語の「お前」って、親や目上の人間に使うのには相当キツイ言葉ですよね。

クライマックスの流れはこの辺りまではアニメ版も同じで、カジモドはここで英語では「You killed her」と言います。これをアニメの日本語版(音声・字幕)は「殺すなんて」「彼女を殺したな」と訳し、絶妙に「you」を翻訳することを避けています。アニメ版翻訳スタッフが、カジモドにここで「お前」と言わせることは少々きつすぎると感じたからではないでしょうか。

フロローが言い渡したのは、一応公的な判決です(原作では裁判の様子も描かれ、別の裁判官が死刑判決を下します)。しかも、フロローが言い渡しただけなのか、彼自身が一人で下した判決なのかさえわかりません。愛する女性に死刑判決を与えた相手を恨みたくなる気持ちはわかりますが、それだけの理由でカジモドがフロローを殺したとすれば、死刑判決を出した裁判官や死刑執行人を殺すのと同じですよね。つまり、死刑判決だけではフロローを殺す理由にはなりません。

ここから後のシーンはアニメにも原作にもない四季版オリジナルの流れで、カジモドとフロローの言い合いが続きます。

フロローは「それはその女が選んだ結末だ」「助けてやることもできたのに」と言います。これは、彼の罪の告白ではないですよね。少なくとも表面上、フロローが言っているのは「彼女は悔い改めるのを拒んだ」「彼女の魂を助けてやれなかった」ということだと言えます。

そんなフロローをカジモドは「邪悪なのはお前だ」「悪人は罰を受ける」と言って、フロローを塔の上から投げ落とします。ほとんどためらうことなく、悲しみを見せる言葉もなく・・・。このシーンの冒頭からずっと、カジモドは怒りや恨みをあらわにしたまま。エスメラルダが死んだ時点で、フロローが悪い奴であることがカジモドの中で確定している感じです。

観客としてはフロローの悪事を見てきているので、そこに大きな違和感があるわけではありません。でも、カジモド自身はいったい何を見たのでしょうか。カジモドはほぼずっと大聖堂内に閉じこもっています。フロローがエスメラルダを脅していたくだりは知りようがありませんし、彼女がいくら自分に優しくしてくれても、彼女が本当に罪を犯していないかどうか、カジモドにはほとんど何もわからないはずです。

・・・では、「死刑判決」以外で、カジモドがフロローを「邪悪だ」と言える出来事はあったでしょうか。

・・・そう、ここで前に書いた四季独自の「伏線」が重要になってくるわけですね!
フロローがフィーバスを刺し、その罪をエスメラルダになすりつけたこと。

怪我をしたフィーバスをエスメラルダが大聖堂に連れてきて、カジモドに介抱を頼みます。その時、フィーバスはカジモドに「フロローにやられた」と告げます。それは、フロローが悪事を働いたことをカジモドが知りうるたぶん唯一の出来事です(原作やフレンチ版で出てくる「フロロがカジモドに誘拐を命じる」とかはありません)。だからこそ四季版制作者は、多少流れに無理があってもこのシーンを入れる必要があったのででしょう。

しかし・・・。
「フロローにやられた」とフィーバスに言われても、カジモドは「本当に?」「どうして?」とその原因や成り行きを聞くこともしません。クライマックス・シーンでも、カジモドはフロローに問いただすこともしません。

カジモドにとって、フロローは正しい人だったはずです。しかも育ての親、血を分けた伯父、唯一の家族。そんな人が人を刺した。本当なのか、なぜなのか、あなたなら本人に問いませんか。

カジモドにとって重要なことのはずなのに、なぜこんなに軽くスルーしてるんだろう・・・。
・・・と考えて、ふと気が付きました。フロローに確認すれば、フロローは絶対「あいつらが嘘を言っているのだ」と反論するでしょう。カジモドはそれに対して言い返せるだけの確たる根拠が何もありません。カジモドはフィーバスたちの言葉でしか、フロローの悪行を知り得ていないのです。

例えばエスメラルダたちが、「ベルサイユのばら」のジャンヌのようなカップルだったとしたら。嘘八百で他人を簡単に騙すような輩なら、本当は悪いことしてフロローに追われて怪我したのに、さもフロローが悪い奴のように嘘をつくなど朝飯前ですよね。

カジモドにとっては言葉のみが判断材料なわけですから、好きな女性と育ててくれた人のどちらを信じるか・・・の違いでしょうか(そりゃあ惚れた女を信じたくなるのはわかるけど)。カジモド目線で見た場合、四季版ではかなり不確かな理由で彼はフロローを殺したと言えるかもしれません・・・(^^;)。

それに気が付いた時、四季版のカジモドがいきなりフロローを「お前」呼ばわりしていた理由に思い至りました。
カジモドにとってフロローを断罪できる明確な根拠はなく、クライマックスのシーンでもフロローが悪事を働いたことは立証されません。つまり、カジモドが冒頭から怒って殺意を抱くレベルでないと、カジモドがフロローを殺す流れにならないのですね。

まあ・・・四季版カジモドは客席でフロローの行動の一部始終を見てた、ということにしておきましょう!!




では、原作やフレンチ版では、この点はどう描かれていたのでしょうか。どちらも四季版と同じく、フロロは聖職者で、最後にはカジモドがフロロを殺します。

原作: カジモドは「聖域」である大聖堂の一室にエスメラルダをかくまいますが、カジモドが不在の隙に彼女はいなくなります。彼女は外に出れば追われる状況なので、自分から外へ出たとは考えられません。そして、その部屋に入る「赤門の鍵」を持っているのはフロロだけ。それに気づいたカジモドは、彼女を連れ出したのはフロロだと確信します。その前にフロロがカジモドにエスメラルダをさらうよう命じたことなどからも、エスメラルダの窮地がフロロの仕業であると思い至ります。そして、広場で処刑されたエスメラルダを大聖堂の塔の上から見て悪魔のような笑い声をあげるフロロ。それを見て、カジモドはフロロを塔の上から突き落とします。

原作でユゴーは、かなり 回りくどい方法で「赤門の鍵」の件を描いています。原作ではこれが、フロロの非道な行動をカジモドに確信させる重要な理由となっています。回りくどい方法でも、ユゴーにとってこれは外せない要素だったのですね。

一方フレンチ版では、フロロがカジモドに直接告白します。エスメラルダを死刑台に追いやったのは自分だと。なぜなら、彼女が自分を拒んだからだと。2時間半程度の舞台のフレンチ版では、さすがに「赤門の鍵」のくだりを入れる時間的余裕はなかったと思います。そして「赤門の鍵」を入れない場合、こうやって明確にフロロに告白させないと、カジモドがフロロの非道に気づくことができないという判断だからかもしれません。最後にフロロは、絞首刑となったエスメラルダを塔の上から見て高笑いをし、カジモドに突き落とされます。

原作もフレンチ版も、フロロの悪事をカジモドが確信する明確な根拠があります。さらにカジモドの目の前で、フロロはエスメラルダの死を見て高笑いします。カジモドがフロロを突き落としたくなったのも、理解できますよね。




実は四季版を見るまで、これらのシーンをじっくり比較して考えたことはありませんでした。

カジモドがどう行動したのか意識しながらじっくり読むと、原作のクライマックス・シーンは本当に素晴らしいです。フロロの悪事を確信したカジモドは、高笑いするフロロを塔の上から突き落としますが、最初フロロは雨どいに引っかかって、必死でなんとか登ろうともがきます。

その真上で、何も言わずに、ただ泣いているカジモド。ここでカジモドは一言も発しません。そして最後にフロロは力尽きて地上に落ちていきます。ユゴーの冷厳な眼差しと筆致に圧倒されていました。うーむ、さすが大文豪・・・。

フレンチ版でフロロが自分の罪を直接カジモドに告げるのは、フレンチ版スタッフが考え出したオリジナルのシーンだったわけですね(気づくのが遅い)。それをフロロが自分で言葉にするだけに狂気や哀しみが増し、カジモドの言葉に怒りとともに悲哀もこめられ、見ていて心に迫ってきます。




四季版で見たカジモドは、どこかかわいさのある、真っすぐなカジモドを体現してくれていました。
クライマックス・シーンで、フロローやカジモドの「哀しみ」を表現したものを見てみたかったなあ。


(4)神父と判事は似て非なるもの [←前] ◆
[次→] (6) 弟が示すフロローの道




四季版「ノートルダムの鐘」感想 (2017)






(4) 神父は判事と似て非なるもの:四季版ノートルダム

主人公が誰かというのは人によって意見が分かれるノートルダムですが、原作者ユゴーが一番描きたかったのはおそらくフロロだと思います。**ネタバレあり**

1707.jpg
↑ノートルダム大聖堂内。このステンドグラスは窓になってるんですね。

ノートルダムの物語の核を成すそのフロロの描き方は、作品によって結構異なります。
原作・フレンチ版では聖職者、アニメ版では判事。そして四季版では聖職者に戻りました。

原作でフロロが神父である理由は、「神父である自分が女を愛してしまった苦しみ」を描くためだと言えます。
一方アニメのフロローが判事になったのは、冒頭から赤ん坊のカジモドを井戸に投げて殺そうとしたりする冷酷なキャラクターが神父という役職にそぐわないという判断からでしょう。判事だって悪いことをしちゃだめですが、理性に訴えかけることが仕事の判事と精神に訴えかけるのが仕事の神父とでは、同じことをしても周囲からの視線は同じではないと思います。神父は特に清廉で高潔なイメージを保つことはとても大切ですよね。

さて四季版は、アニメ版の判事設定から原作同様神父に戻っています。冒頭やラストでフロローが人を殺したor殺そうとするシーンはなくなりました。しかし、神父の言動としては「おや?」と思うシーンもいくつか。それは、どういうものでしょうか。




四季版のフロローは真面目でカタブツ。そんな彼が思わずジプシーのエスメラルダを好きになってしまいますが、彼女はイケメンな警備隊長フィーバスと恋仲に。警備隊長として赴任したフィーバスですが、王の許可を得てエスメラルダを捉えよと命ずる冷酷なフロローのやり方に疑問を感じて離反し、逆に警備隊から追われる立場となります(ちなみに、この辺りの流れはアニメ版のもので、原作には離反等の話は全くありません)。

場面は、フィーバスと警備隊の衝突シーンに。エスメラルダもフィーバスに加勢し、警備隊の兵士と戦っている中、舞台の中央にいるフィーバス(近くにエスメラルダ)の背中を、脇から駆け寄ったフロローがナイフでぶすっと刺します。

あ、原作と同じ構図だ・・・♪ (←つい喜ぶ)

原作では、エスメラルダと逢瀬の約束をしたフェビュス(フィーバス)を夜の暗がりの中フロロがついていきます。そして彼女と二人きりでベッドインしようとする寸前のフェビュスの背中を、隠れていたフロロがエスメラルダのナイフを使ってぶすっと刺します。そしてフロロはさっさと逃げ去り、エスメラルダはフェビュスを刺したとして死刑判決を受けることになります。
四季版の流れは原作とは違うのですが、エスメラルダ & フィーバス vs 彼を刺すフロローという構図が同じなのですね。

・・・と喜んだのも束の間、はっと気づいて・・・
・・・・・・いや・・・ちょっと待ってフロロー!

聖職者が公衆の面前でそんなことしちゃダメーーーー!!!!


周囲は騒乱状態で、すぐ近くに兵士たちがいます。舞台の演出は、白色のライトが舞台全体を煌々と照らしていて、見えにくい雰囲気もなく、誰かがフロローの行動の一部始終を見ていても何の不思議もありません。その点は、原作とは全く違います。

いくらフロローがフィーバスを捕らえる命令を下したといっても、彼が直接やるというのは別問題じゃないでしょうか。神父(しかもノートルダムの大助祭)が直接人を刺そうとするなんて、それを人に見られでもしたら、彼の印象に対するダメージの大きさは計り知れません。

おまけに、四季版のフロローはフィーバスを刺した直後、そのナイフを投げ捨てて「エスメラルダが刺したぞ!」と周囲に向かって叫びます。つまり、それはバレてはいけない行動だからということの裏返しですよね。また、そこも全部誰かに見られた場合、罪をエスメラルダになすりつけてるわけですから、もう何も言い訳はできなくなってしまいます。

フィーバスとエスメラルダは原作のようにいちゃついていたわけでもなく、フロローがかっとなって刺してしまったというほどの状況ではありません。四季版では正直、フロローがフィーバスを刺す流れが不自然というか、その理由が弱いのですね。

・・・と思ってその後でアニメを見返していたら・・・フィーバスがフロローのやり方に納得できずに離反するというのは同じですが、フィーバスが怪我をするのは、他の兵士の矢にあたって、でした!!(フロローは指示はするが直接何も手を下していない)

・・・そりゃそうだよね・・・(^^;)。それが自然な流れというもの。
四季版は、原作要素を少々強引に突っ込んでるかな~。でもアニメ版にもない設定を、わざわざどうして?(四季版制作者は原作マニア?)

いろいろ考えてみると・・・これは後々の重要な「伏線」になるのですが、そこには四季版ならではの事情があったと推察します。他作品とは違う、四季版のその理由とは?(長くなるので詳細は後ほど)

せっかくなので、このシーン付近の個人的萌えポイントを紹介しておきますね。

萌えポイントその1:

四季版ではその後、刺されたフィーバスをエスメラルダが救出し、大聖堂のカジモドに預けます。そして、フロローがエスメラルダたちジプシーの根城「奇跡御殿」をガサ入れすると知った二人は、彼らを助けに行こうということになります。

でも、奇跡御殿の場所がわからない。その時、カジモドはエスメラルダからもらったペンダントが隠れ家を示す地図だと気づきます。それは、メタリックな細い棒が数本ずつ縦横に組み合わせられた、てのひら大のもので、中央付近に丸い点があります。それが、隠れ家の場所!

私、2列目中央付近の席だったので、この「地図」をかなりガン見してたのですが・・・。
いやいや、パリの街は迷路みたいでわかりにくかったはず!シテ島らしき中州もないし、カジモドよそんなんで場所わからないぞ~~!

・・・と思ってアニメを見たら、そのペンダントはメタリックではなく紐や木の棒でできていて、「道」の数ももう少し多く、シテ島らしきものもありました。「これなら地図として場所の特定できるかな」とマニアックに思っていた私(笑)。四季版は舞台で繰り返し使うから、耐久性のこと考えてこうなったかな?(たいていの人にはこの地図の細かい部分は見えないでしょうしね)

萌えポイントその2:

二人で隠れ家を探しに行くことになった時、カジモドはフィーバスに「パリの街は全部知ってる」とドヤ顔で言います。

・・・いやいやカジモド、君は大聖堂の塔の上から街を見てただけだよね、数階建ての建物でびっしりのパリの街はちゃんと見えてないよね。カジモドよそんなんでわからないぞ~!
・・・と、突っ込む私。

そしたらその直後のシーン、パリの暗がりの中で、カジモドとフィーバスは「迷ってしまった・・・!」

私は心の中で大爆笑、というか拍手喝采。うんうん、そうだよ、そりゃそうなるよねーー!!
この辺りのシーン、テンポもいいし、フィーバスとカジモドの関係性もいい感じで大好き♪(でも京都公演で少し演出が変わっていたような気が)


(3) エスメラルダとクロパンの火花な関係 [←前] ◆
[次→] (5) カジモドはなぜ「反逆」したのか




四季版「ノートルダムの鐘」感想 (2017)





(3) エスメラルダとクロパンの火花な関係:四季版ノートルダム

エスメラルダは、ジプシーの美しい踊り子です。
原作や映画、フレンチ版など多くの作品で、彼女はジプシーの中でみんなのプリンセス的存在。

1706.jpg
↑シテ島のサント・シャペルにいたエスメラルダとカジモド

四季版のエスメラルダは、仲間と群れるというより、孤高のジプシー。しきたりに縛られるのが嫌いで、しっかりした考えを持ってそれを貫こうとするので、友達ができなさそうなタイプ。そして、そういう自分にちょっとジレンマも感じています。それでいて他人想いで、一生懸命。細やかにその性格が描かれているので、彼女の行動はどれも自然で説得力があります。

四季版エスメラルダの不器用な性格設定は、特にフィーバスとの関係で光ってくるんですよね。フィーバスもそりゃ守りたくなるよね、っていう感じ(^^)。

カジモドを心配して奔走するエスメラルダに、フィーバスがなぜと問うと、「誰かが心配してあげなきゃ」というエスメラルダ。
その後エスメラルダの窮地にフィーバスが手助けをした時に、今度はフィーバスが彼女に、「誰かが心配してあげなきゃ」。
・・・もう胸きゅんきゅんしちゃいますよねー♪♪



一方のクロパンはジプシーのリーダーで、泥棒王国「奇跡御殿(奇跡の庭)」を仕切っています。
脇役ながらいい働きをするヤツで、原作はじめ数々の派生作品でも、猥雑で怪しげ、だけどどこか陽気な雰囲気を作り上げる役割を大きく担っています。フレンチ版ではさらに、クロパン率いるジプシーたちを現代の移民問題とオーバーラップさせて描いていて、作品世界を重厚なものにしています。

そして、四季版ではエスメラルダとクロパンとの関係がおもしろい。
二人は、ちょっぴり犬猿の仲なのですよーー(≧∇≦)!!

どちらかというとエスメラルダのほうが枠からはみでたことをしがちなのです。稼いだ金をクロパンに支払うのを「しきたりに従うのは好きじゃない」と言って渋ったり、その辺がリーダーであるクロパンにはいろいろと気に入りません。ことあるごとに、視線の火花を散らす二人(かわいい・・・)。
だからといって互いを嫌っているというわけではないな~。相性は良くないけど認め合ってる、的な?(笑)。

彼女が窮地に陥った時には「何かしでかすと思ってたよ!」とエスメラルダに言うクロパン。
でも彼女を見捨てず助け出すクロパン(いい奴・・・)。

原作などそれ以外の作品では、この二人はとりあえず仲良しキャラだったので、四季版の関係はとーっても新鮮。エスメラルダの細かい性格描写にしてもそうですが、ストーリーの流れには直接関係ないけれど、今の私たちから見てちょっと遠い存在であるジプシーなど中世の物語世界に、親近感や現実味を加えてくれるんですよね。ああ、こういうのありそう、とか(笑)。



それと、エスメラルダの靴!最初の萌えシーンは、初めてエスメラルダが登場するダンスのシーン。
「エスメラルダが靴はいてる~~~~~(≧∇≦)」(←そこかよ)

フレンチ版のエスメラルダは裸足なんですよね。靴を履いてる姿はとても新鮮で、これも素敵♪
それで、家に帰って最初に原作でチェックしたのがコレなのですが(笑)、
「原作も靴はいてる~~~~(≧∇≦)」 (←ちゃんと記載があったことがまた嬉しい ←それまで認識せずに読んでいた)
さらにアニメ版をチェックし、
「アニメ版も裸足~~~(≧∇≦)」

・・・結局、何でもいいんじゃないのか?(笑)・・・と、自分に突っ込むくらい、靴か裸足かでテンション上がってました。

ちなみに、その靴って四季版ではヒールは太く低く(きっと舞台だから)、そして色は淡いサーモンピンク。遠目だと履いてるかどうかはっきりわかりにくくて、意識しなければ素足に見える感じです。(彼女がダンス・シーンでその靴を履いたおみ足をぱーーっと上げるのが、これまた素敵でねぇ♪)

それと、私が拝見したエスメラルダ役の岡村美南さん、ちょっと低めの豊かな声やしゃべり方が、カジモドに語りかける時とかすごく心に響く感じで素敵でした。優しくかつ孤高のエスメラルダを、とてもよく表現してらっしゃったと思います。


(2) カジモドの結婚 [←前] ◆
[次→] (4) 神父と判事は似て非なるもの


四季版「ノートルダムの鐘」感想 (2017)






(2) カジモドの結婚:四季版ノートルダム

私はノートルダムな人生をフレンチ・ミュージカル版からスタートしたので、それがベースになっています。

そんな私の四季版「ノートルダムの鐘」の感想、まずはラストの部分から始めたいと思います。もちろんストーリーも最後までネタばれしますので、これから初めてノートルダムを見る予定の方はこのままお帰りください。

前回紹介した通り、四季版はディズニー・アニメ版のストーリーをベースにしています。そのアニメ版のラストに関わる部分のあらすじ:
ノートルダム大聖堂の鐘つき男カジモドは、ジプシーの娘エスメラルダに恋をしますが、彼女は護衛隊隊長のフィーバスと相思相愛の仲になります。同じくエスメラルダを愛してしまう判事フロローは、自分の思いを受け入れないエスメラルダに死罪(火刑)を与えますが、カジモドに助けられて彼女は生還します。結局フロローは死亡、ラストはエスメラルダとフィーバスが結ばれ、カジモドは失恋するものの、皆が明るく明日に向かって生きていくところで物語は終わります。

原作とかなり異なるのがフィーバス(フェビュス)のキャラクターで、アニメ版&四季版は顔も性格もいい男♪
これは、エスメラルダの物語をハッピーエンドにするための変更でしょう。

原作及びそれに準じたフレンチ版: 浮気者のフェビュスにとって、エスメラルダはかりそめの相手。絞首刑と決まったエスメラルダを助けにいくこともせず、最後は婚約者と結婚します。そしてエスメラルダは失意の中、絞首台の露と消えます。カジモドはモンフォコン墓地で彼女の遺体を抱きしめて永遠の眠りにつきます。


さて四季版はというと、フィーバスがアニメ版同様すごくいい奴!登場シーンでは、原作寄りの浮気者か?と期待させてくれましたが(笑)、四季版も性格イケメンです。そりゃあエスメラルダも恋に堕ちるよね。そして、二人は相思相愛となります。

四季版のラスト:
エスメラルダは火刑場からカジモドによって助け出されますが、はかなく死亡。その後フロローは死亡。フィーバスが彼女の亡骸を抱えようとしますが、怪我をしていたためふらつき、カジモドが彼女を抱きかかえます。フィーバスはそのまま舞台脇へ姿を消し、カジモドが舞台中央に彼女の体を置きます。そしていつのまにかエスメラルダは立ち上がって舞台奥に消えていきます。

カジモドがこちらを向くと、カジモド・メークはなくなり、腰が曲がっていたのも背筋を伸ばした状態で立ち上がり、彼は穏やかにカジモドの最後を語ります。つまり、大聖堂の地下室で、カジモドとおぼしき骨がエスメラルダの亡骸を抱きしめているのが見つかった、と。


このカジモドが語るラストは、原作とほぼ同じもの。
四季版を見ていて、「原作のラスト入れてくれたんだ・・・(じーん・・・)」と一瞬感動に浸ったのですが・・・

・・・いや・・・ちょっと待って・・・あれ・・・? ・・・ちょっと待ってカジモド・・・!!

原作では、エスメラルダはフェビュスに捨てられた形です。つまり、彼女は一人ぼっちのまま死んでいきます。だからこそ、カジモドがそばに寄り添って眠るというラストは、彼女にとっても救いであろうと読者は思えるのです。一人じゃないね、よかったね、エスメラルダ・・・と。原作やフレンチ版が単なる悲劇ではない、と私が思う理由はそこにあります。

しかし四季版では、アニメ版に準じてエスメラルダとフェビュスは相思相愛のまま終わります。彼女は一人ぼっちなわけではありません。なのに原作通り、カジモドがエスメラルダを抱いた形で永遠の眠りについています。・・・他に恋人がいる女性を抱きしめて・・・。

空気を読めえええぇぇカジモドォォォォ・・・・!!!!

カジモドよ、君がエスメラルダを好きなのはわかる。しかし、君が彼女と一緒に眠ってしまったら、エスメエラルダの気持ちは!!

エスメラルダとフィーバスは明らかに恋人同士です。彼女はカジモドを最後まで「お友達」と言い、フィーバスを恋人として死んでいきます。

確かにラストで、フィーバスは怪我のためにエスメラルダの亡骸を抱きかかえられず、代わりにカジモドが彼女を抱き上げます。でもそれはフィーバスが怪我をしてるからですよね?あくまで代理ですよね?フィーバスはそのままひっそり下手にはけていきますが、だからって「死んだばかりの恋人を他の男に譲る」っていう意味じゃないですよね?もしそうだとしたら、フィーバスにグーパンチですよ!!エスメラルダだったら「フィーバス、私が好きなのはあなたなのよ!カジ、あなたのことは大好きだし、大切なお友達だけど、それとこれとは別なの。わかって」って言いそう。

ちなみに、原作のラストの章のタイトルは「カジモドの結婚」です。もちろん結婚式を挙げたという意味ではなく、四季版のようにカジモドがエスメラルダの亡骸を抱きしめて死んでいったということを、ユゴーは「結婚」と表現したのです。

・・・そう、カジモドにとって、それは彼女との結婚です。でもその「結婚」相手には・・・(--;)。

こういうことを考えていて、ふと、なぜユゴー先生がフェビュスを浮気者にしたのか、ようやくわかった気がしました。
ラストの設定から逆算すると、この「カジモドの結婚」というラストを持ってくるためには、エスメラルダは好きな人にも捨てられ一人ぼっちで死んでいくという設定でなければならないのです。そのためにフェビュスはエスメラルダを裏切る必要があり、それゆえ彼は浮気な二股男という必然性があったわけですね。つまりこの浮気男の設定は、ユゴー先生の綿密な計算によるものとも言えます。

アニメ版も、エスメラルダとフィーバスが結ばれるハッピーエンドというラストにするために、逆算してフィーバスが顔も性格もイケメンになったわけで、こちらも設定がきちんと計算されています。


ちなみに、フレンチ版のラスト曲「Danse mon Esmeralda 踊って僕のエスメラルダ」は、原作では後日譚として語られる「カジモドの結婚」部分を現在形に置きかえ、今まさにモンフォコン墓地でエスメラルダを抱きながら眠ろうとするカジモドの気持ちを描いた名曲です。


↑「Danse mon Esmeralda 踊って僕のエスメラルダ」和訳はこちら


四季版ではカジモドとエスメラルダの遺体が発見されたのは「大聖堂の地下室」となっていましたが、原作でエスメラルダの遺体が置かれていたモンフォコン墓地は、当時の処刑場&罪人の遺体置き場でした。おどろおどろしいその場所で、カジモドはどんな悲痛な思いで彼女を抱きしめて眠ったのでしょうか。モンフォコン墓地について詳しく知りたい方は、モンフォコンのレポをどうぞ。

一方四季版で嬉しかったのは、カジモド役の役者がこの後日譚部分を穏やかな表情で静かに語ったこと。
もしカジモドの魂が自分自身を振り返ることがあったら、こんな風にどこか幸せを感じさせる表情で語ってくれるのかもしれない・・・。そんな風に思える素敵な演技でした。


(1) 関連作品の概要 [←前] ◆
[次→] (3) エスメラルダとクロパンの火花な関係




四季版「ノートルダムの鐘」感想 (2017)




左サイドMenu

Profile

Mew

Author : Mew

2013年来日公演したミュージカル
ノートルダム・ド・パリ」、及びフレンミュージカルを応援中!ノートルダムでオリジナル・グランゴワールを務めたブリュノ・ペルティエも熱く応援中!


Facebookで読む
Twitterで読む

最新記事

関連ブログ更新情報