ノートルダム・ド・パリ応援隊

We love Notre-Dame de Paris. We love French Musical.

 

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ノートルダム、ロンドン公演&パリ20周年記念公演!

現在カナダで絶賛公演中の「ノートルダム・ド・パリ」ですが、いよいよ久しぶりにロンドン公演!
そして、1998年の初演から数えて2018年は20周年ということで、パリのパレ・デ・コングレ劇場で20周年公演が開催されます。

おめでとうございます~~~~~~!!

数あるノートルダム作品の中でも、ヴィクトル・ユゴー原作の精神を深く伝える感動大作。
プラモンドンの華麗な言葉、コッシアンテの繊細かつ力強い音楽。
観客動員数は1300万人(!!!)だそうですが、それが全てを物語ってますね。
*劇団四季の「ノートルダムの鐘」とは別作品


作品タイトル: Notre-Dame de Paris ノートルダム・ド・パリ
作詞: Luc Plamondon  リュック・プラモンドン
作曲: Richard Cocciante  リシャール・コッシアンテ
オフィシャルサイトはこちら

最近の宣伝でよく使われている数値(2019年ロンドン公演トレーラーより):
観客動員数: 1300万人
上演国:  23か国
上演言語数:  9言語


◆ロンドン公演◆
劇場: Coliseum (劇場HP
日程: 2019年1月23~27日 
 チケットはこちら
(英語字幕あり!) ←ということはフランス語公演ですよね


ロンドン公演トレーラー

カジモド: Angelo Del Vecchio
エスメラルダ: Hiba Tawaji
フロロ: Daniel Lavoie
グランゴワール: Richard Charest
フルール・ド・リス: Alyzée Lalande, Idesse
フェビュス: Martin Giroux
クロパン: Jay

ロンドン公演のキャストが発表されました!
2016年凱旋公演スタート時に、フルール・ド・リスのファーストキャストだったアリゼちゃんが同役でカムバック!!(≧▽≦)
リス役はカナダ公演などでファーストを務めているイデスとダブルキャスト的に名前が挙がっています(少なくとも現段階では、劇場HP等でそういう扱い)が、ノートルダムではかなり珍しいと思います。

アリゼちゃんは2017年の「グリース」パリ公演で主役を務め、ノートルダムを降りていたので、カムバックは難しいかなと思っていただけに、個人的にはとても嬉しいです。彼女は、私の中で理想系のリスだったので(^^)。(ジュリー・ゼナッティは別格。あのRの発音の攻め方は怖いくらいに素晴らしい・・・)。


◆ パリ20周年記念公演 ◆

場所: パレ・デ・コングレ劇場(パリ)
日程: 2018年12月21日~2019年1月6日

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ちなみに、この20周年記念ポスターに書かれているのは、
20 ANS QUE VOUS ETES
BELLE
「20年ずっとあなたは美しい」という意味。最後の単語「BELLE(美しい)」は、大ヒット曲の「BELLE(美しい人)」のタイトルで、それに掛けてる感じですね。

20周年記念公演のファースト・キャストは、おおむね2016年からの凱旋公演キャストだと思いますが、フルール・ド・リスについては変動があるかもしれません。また、セカンドキャストについては、カナダ公演ではケベコワ(ケベック人)キャストが参加するなどありましたので、こちらも変更の可能性があります。

いずれにしても、フランス国内に戻ってくるのはいつになるかわからないし、やっても聖地パレ・デ・コングレ以外の可能性もあるので、この機会にぜひ!!

20周年のお祝いをやれてなかったので、ついでに(笑)。
1998年9月16日、パリのパレ・デ・コングレ劇場でスタート。フランスのミュージカル界を変えることになった作品。
多少の演出変更や衣装変更はありますが、ほぼ一貫して同じ状態で上演され続けています。


1998年初演時のヒット曲「ベル(美しい人) Belle」 by ダニエル・ラヴォワ(フロロ)、ガルー(カジモド)、パトリック・フィオリ(フェビュス)


1998年初演時の「リューン(月) Lune」 by ブリュノ・ペルティエ(グランゴワール)

ちなみにこの曲は、約20年前ブリュノの「ノートルダム」でのオーディション曲だったそうです。
元々カジモド役としてオーディションに参加したブリュノですが、スタッフが求めている声質と異なったため、そちらは不合格。しかしスタッフから、「まだ役は練り上げられていないけれど、君にぴったりの曲がある」と言われて渡されたのがこの「リューン」。

歌いこなすのが難しいと言われるこの曲、作曲家のコッシアンテ先生は歌ってみせてくれたかもしれませんが、ブリュノはその場で歌わされた状態。今のようにCDなどを聞いて予習ができたわけでもなく、この難曲を歌い上げて見事役をゲットしたというのは、なかなかですね。


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ノートルダム・凱旋ツアー感想 (2017 & 2018)

このたび2018年9月にカナダ・モントリオールで「ノートルダム・ド・パり」の公演を見に行ってきました。
実は2017年10月にもフランス・カーンでのノートルダムを観劇したのですが、感想をまだアップしていなかったので、まとめて書きたいと思います。

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「ノートルダム・ド・パリ」生き字引のリシャール・シャーレ。出演回数1000回突破!!おめでとうございます!!

2016年秋のフランス・パリの凱旋公演から、ほぼ1年おきに見ていることになります。ファーストキャストは、フルール・ド・リス役はキャスト変更がありましたが、それ以外は凱旋公演から変更なし。(リス役のAlyzée Lalandeちゃんが私にとっての一つの理想形のリスだっただけに、個人的にはとても残念・・・。グリースに主役で出てたんですね・・・←今知る)

総じて新人組(2016年から参加のファーストキャスト)が皆、年を経るごとにはっきりとうまくなっていて、そこが、時間を置きつつ継続的に見る醍醐味でもありました。

特に印象的だったのは、フェビュス役のマルタン・ジルー。2016年のスタート時は、「フェビュスっぽい」感じだったのが、2017年にはしっかりと「フェビュス」になってたんですよね~(^^)。もちろん最初からよかったんですけど、少し硬さがあったのが、1年後には歌も動きもすっかり堂に入ってました。

そして今年はさらにパワーアップ!「引き裂かれる(デシレ)」の歌は、二股かけてる男の自己中ソングなんですが、自己中感全然ないけど(笑)、パワーで押して押して引き裂かれてる感を表現していて、すごいすごい!ラストの「デシレ~~」部分は圧巻!
そしてその後の「ベル(美しい人)」は、「デシレ」とはうって変わって、艶のある美声。ちょっとそれ卑怯だわ(笑)。

2016年スタート時に同じ日に見た知り合いが「彼の目がエロくて(誉め言葉)」と言ってたのですが、今までそれがわからなかったんです。そして今回、フェビュス登場の冒頭のエスメラルダとかを見るシーンでその表情をやっと見ることができました。(角度の問題と、私の側がどこを見てるかに寄りますね)。いやー、エロいわ~~~(誉めてる)。マジでフェビュス(笑)。

そして、「愛の谷」でエスメラルダとベッドにいる時には、「お前をモノにしてやるぜ」的なちょっと野獣のような瞳(ある意味これもエロい)。

多彩なフェビュスを、しかもフェビュス感たっぷりに見せてくれて、そこが嬉しかったな~~(^^)。

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マルタン・ジルー&ダニエル・ラヴォワ

そして、進化を続けているのは、エスメラルダ役のイバ・タワジもカジモド役のアンジェロ・デル・ベッキオも同じ。この二人はスタート時から既に完全にできあがっていたけど、1年経って、さらにパワーアップした感じ。
そして、さらにその一年後もモントリオール公演では、パワーアップしたなーっていうより、演技に深みと幅が加わって、うるうるさせられました・・・。

やっぱり舞台に立ち続けるって大切なんだと、ものすごく実感。

実はカーン公演では、公演回数は少なかったとはいえ、ほぼ全部ファーストキャスト・オンリー(リス役だけ一度セカンドでした)。そういえば、「ロビン・フッド」をマルセイユで見た時も、3日とも続けてファースト・キャストのみ。

フランスの地方公演では基本的に、あちこち多くの都市は周るけれど公演日数は数日だけ、というパターンが多いんです。日本のように4大都市で長めの公演というのと逆パターンと言えるかもしれません。(パリやモントリオールなど大都市ではロングランしますが)。

そういう公演形態で、都市ごとにほとんどファーストキャストだったら、セカンドキャストが舞台に立つ機会がほとんどないんじゃないのか・・・と心配になりました。パリのスタート時は1~2週間はファーストキャストで行くと聞いていたので、ふんふんなるほどと思っていましたが、カーン公演ではまだ見たことのないセカンドキャストを見るのも楽しみにしていたのに、ほぼ空振り。残念であると同時に、人材育成のためにももっとセカンドを出してほしいなと思いました。特にファースト新人組の毎年のレベルアップを感じたので、余計に・・・。

モントリオールではようやくセカンドキャストを見る機会があって、新たに見たのはグランゴワール役のフロ・カーリ Flo Carli とエスメラルダ役のElhaida Dani(エルハイダ・ダニって読むんでしょうか)。最初は「ちゃんと歌えるかなあ」とドキドキしてたんですけど、歌いだしたら「心配して損したわ!」くらいな歌声で、二人ともとても良かったです。ダニちゃんは、エキゾチックでミステリアス系エスメラルダ。フロ君は、さわやか系グランゴワールで、動きとかところどころファースト・グランゴワールのリシャール・シャーレっぽい。さすが日々目の当たりにしているだけに(^^)。そういえば、リシャールもアジア初演当時友達が「さわやかさん」と呼んでいたなあ。

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Daniel Lavoie & Flo Carli

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Elhaida Dani (Esmeralda) & Richard Charest (Gringoire)

ただ、セカンドキャストは出番が少ないからか、動きが硬かったり、音楽的につまづきがあったり、ファーストとの差が多かれ少なかれありました。これは今回見たどのセカンドキャストでもそうだった、というのが個人的にはショックなことでもあり・・・。やっぱり舞台に出続けるって大切なんですねえ。

あ、セカンドで音楽的な問題を感じなかったのが、フェビュス・セカンドのイヴァン・ペドノー!というより、さらに進化してた!!彼は日本やアジア公演でファースト・フェビュスだったのですが、地元ケベック公演でマット・ローランとともにセカンド・キャストとしてカムバック(ケベック公演のみかどうかは不明)。

彼の真面目に頭抱えて悩むフェビュスが密かにツボで、好きだったのですが・・・真面目さが影を潜めて(デシレは上記のマルタンと同じ感じ)、そして歌声や歌い方にすごく幅が広がっててびっくり!!日本公演以降アジア公演など何年もやってましたが、その時には特に変化は感じなかったんです。安定のうまさが続いている、という感じで。

彼はケベックでテレビ番組に出演したり、ソロコンサートも行っていました。それが彼の演技や歌い方に新たな魅力をプラスしたんでしょうね。芸の幅を広げるってこういうことか~って思いました。

◆ フランス・カーン Caen公演 (2017年)

このカーン公演の目標は「グランゴワール以外を見る!」でした(←どんな目標だよ)。

もちろんグランゴワール以外も見てるんですが、ついついグランゴワール見てるし、お布団シーン(「フェビュスという言葉」)では、お布団をくるくる丸めて舞台袖に消えていくグランゴワールを最後まで見ていて、既に次の歌を歌いだしてるエスメラルダをガン無視してたんですよね・・・(^^;)。

そしてカーンでは、無事!!初めて!!本公演で「太陽のように素敵」を歌っているエスメラルダを最初から見ることができました!!(←結構勇気がいった)

ああ、ごめんね、エスメラルダ。やっと君をちゃんと見れたよ・・・♪

そしてこれはその次のモントリオール公演でですが、ようやく「カテドラルの時代」でバックがどんな動きになっているか、ガーゴイル像が壁から出てきて、その後の部分がパタンってドア形式でふさがれて壁になるとか、18年経って初めて知った!!そんな風になってたんか(笑)。

しかし、この「グランゴワール以外を見る」という目標が、実は思わぬ大きな収穫につながりました。

それは2幕の最初の曲「フィレンツェ」。
これは、グランゴワールとフロロが壮大に1482年当時の世相を語る歌。ユゴー先生の原作「これがあれを滅ぼすだろう」をベースに書かれていて、実際にその言葉も歌の中に出てきます。

カーン公演でこの歌を見ていた時、たまたま私の座席はフロロの立ち位置に近く、グランゴワールは逆サイドで少々見にくい位置。そこで思い出して、「そうだ、今回は『グランゴワール以外を見る』が目標だったんだわ・・・」ということを思い出し、見やすい位置にいたダニエル・ラヴォワのフロロをそのままずっと見続けることにしました。
(注:今までもこの歌では、フロロが歌えばフロロを、グランゴワールが歌えばグランゴワールを見ていたんですよ)

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Daniel Lavoie & Richard Charest

そして・・・見ていて、はっと気が付きました・・・・・・

ダニエルのフロロは笑わない・・・・!!!!!!!!

時折不服そうな顔を見せ、グランゴワールとは対照的な表情のフロロ。
日本やアジアで見てきたフロロは、この歌の中で時折グランゴワールの気持ちと寄り添うような表情を見せるのですが、ダニエルは全く微笑まない。

そして、それに気が付いた時、この歌の真意がすとーーん!と飲み込めたんです。
そうか・・・フロロは社会の新たな変化に拒絶反応示して、グチってるオヤジなんだ・・・!

今の世の中でもそうですが、年配の人ほど新しいものに懐疑的だし、若い人ほど新しいものを歓迎しますよね。

つまり、グランゴワールは社会の新たな変革の波をプラス方向で捉えている。まっすぐ前を向いている。
フロロは同じものをマイナス方向にネガティブに捉えている。ずっと後ろを向いている。
新しいものを求める詩人は未来を見つめ、保守的になりがちな聖職者は過去を見つめている・・・。
もっと踏み込んで言うなら、「これがあれを滅ぼすだろう」の「これ」がグランゴワール側で、「あれ」がフロロ側、と言えるかもしれません。

(フロロ)  
フィレンツェのことを話してくれ ルネサンスのことを
話してくれ ブラマンテや地獄篇のことを
(グランゴワール) 
フィレンツェでは こんな話が
大地は丸く  世界にはもう一つ大陸があるかもしれないと

船は大海原へ向けて旅立った
インド航路への扉を求めて
(フロロ)      
ルターは新約聖書を書き直すだろう
そして我らは分裂する世界の暁にいる・・・


その後の歴史を知っている私たちにとって、ルネサンスは停滞していた中世の殻を破った社会的な流れ、としてポジティブに捉えているところがあるので、なんだかフロロが明るい話題を振っているようにも思えますが・・・。
笑わないフロロを見ていて思うのは、彼はルネサンスを「明るい未来」だなんて思ってないということ。
ブラマンテやダンテの地獄篇の話を出しているんだから、ある程度のことは知っている。でも敢えて、グランゴワールに言わせている。

するとグランゴワールが希望に満ちたまなざしで語るのは、「大地が丸い」だとか「もう一つ大陸があるかも」とか。でも当時からすれば、「何ゆーてんねんこいつ」的な内容じゃないでしょうか。(もし今「もう一つ未知の大陸がある」なんて言う人がいたら、眉唾と思いませんか(^^;))。

するとフロロは応えて、ルターの話をします。時空系列的には、ルターはまだ生まれていないので当時のフロロが知っているわけはないのですが、そこは物語として許容範囲。

大事なのは、ルターが宗教改革者ということ。そんなルターの存在は、批判される古い世界の側にいるフロロとしては脅威ですよね。新約聖書を書き直す、という言葉だけを見ると、当時ラテン語で書かれていた聖書を民衆にもわかりやすくドイツ語に翻訳した、というポジティブ視線になりますが、ルターの宗教改革を思えば、カトリックの聖職者サイドにいるフロロにとってはネガティブ視線の話になりますよね。

このサビの部分はグランゴワールとフロロのデュエットとして歌われますが、二人のものの捉え方の違い、詩人と聖職者という立場の違いで、同じ歌詞が全然別の意味になる・・・

・・・というような諸々のことが、ダニエルのフロロの演技を見て、ようやく飲み込めた!!(←遅い)
日本公演以降アジア公演を見続けてきた友達が、この歌を「禅問答のよう」と言っていたことがあるのですが、笑わないフロロだとこんなにもすとーん!ってわかるものなのか、とちょっと衝撃。

演技としてはとても単純なことなのですが、改めてダニエルの解釈の深さを感じていました。

ダニエルごめん。今まであなたのカムバックを「オリジナルキャストだから」と思ってきたけど(いやそれも大きいけど)、違うんだ・・・。
たまたまオリジナルキャストに入ってた人、ではないよね。こういう深さがあるから、この大事な公演のファーストキャストに選ばれたんだ・・・。そして、だからこそ凱旋公演スタート時のパリで、毎夜のように舞台に登場しただけで拍手がおこってたんだ・・・。

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フロロ衣装の後ろ姿

カナダ・モントリオール公演 (2018年)

ダニエル・ラヴォワ(フロロ)

モントリオール公演での目標は(←いちいち目標を立てる必要はない)、カーン公演でダニエルの演技をもっときちんと見なくては!と思ったので、「ダニエルのフロロを(全部)見る!」でした(笑)。

で!お着換えシーン!!(←既に楽しみの一つになっている)
ダニエルがちょーーーーっとだけ慌ててる感があった(≧▽≦) ←嬉しいらしい
そして、脱いだ司祭服を、パリとかでは中央のほうに向いて足元に投げつけていたのが、舞台脇のほうに向かって投げつけていた!! ←やっぱり中央にあると邪魔らしい
それでも、今回は司祭服を両手で高く持ち上げ、ばーん!!と強く床に投げつけてました。その前後で、「司祭としての顔」と「それを脱ぎ捨てた素顔」という対比の構図はきちんと表現しているところがさすが。

で、今回2夜めで見たセカンド・フロロの時は、ここで暗転・・・しばらく暗転のまま・・・。
あれ?ここって暗転したっけ?・・・ああ、でも脱ぐ時間が必要か・・・と思ってるうちに少しずつ明るくなってきたのですが、まだ両手の袖が脱げてない( ̄□ ̄;)。歌いだすまでにはきちんと脱げててほっとしましたが、ちょっとバタバタ感がかわいいわ~(笑)。ただ、やっぱり服をたたきつける感はなかったですが。

そして、3夜めのダニエル・フロロでは暗転はなく(少し暗くなったけど)、マイ初日と同じ感じでした。
以上お着換えシーン報告でした。

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さて、今回フロロをいろいろ見て思ったのは、「ダニエルのフロロには『男の恋心』を感じる」ということでした。

例えば、「神父であること 女性を愛すること Etre prêtre et aimer une femme」の歌。神父なのに女性を愛してしまったフロロの切ない苦しさがダニエルのフロロからはとても強く伝わってきます。ダニエルは、「aimer エメ(愛する)」の部分を強く伸ばし、狂おしそうに歌う。そこがせつない。

でも、それだけじゃないんですね。この歌の最後が「aimer une femme (女性を愛する)」の「femme (女性)」なのですが、この「femme ファーーーム」という部分、ダニエルの歌い方はその後半がすぅーっと柔らかく優しくなって終わります。「女性」、つまりエスメラルダを愛している気持ちがふわ~っと伝わってくるんです。言葉を大事にして歌っているから、感情もより深く伝わってくる感じ。

あるいは後半、サンパピエと警察隊の争いの場面。クロパンが死んで、怒りに震えるエスメラルダが、舞台脇に立っているフロロのところに行ってその怒りをあらわに見せるのですが、その時のダニエルが、驚きと困ったような表情。

・・・・いやいやいや、これ全部アンタがやったことだからね~?

と心の中で大きく突っ込んでたんですが、そこではっと気が付いて・・・

・・・そうか・・・それがわからないからこそ、フロロはああいうことをしてしまったわけか・・・(涙)

・・・と、またそこで大きく納得。


3夜めのダニエル・フロロは、初日と同じ演技だったのですが、私の見る位置が違っていて・・・。悲しそうな表情で、エスメラルダがそばから離れてからも彼女をずっと見続けているフロロ。舞台は警察隊とのもみ合いで、かなり動きのあるシーンなのですが、上手の端にいるダニエルのところだけが、孤独感をしょっていた・・・ライティングとか特にあたってたわけではないのですが。エスメラルダのことを見続けてしまうフロロの恋心と悲しさをとても感じました。


そしてもう一つ印象深かったのは、フロロが檻に入れられたエスメラルダに迫って襲い掛かるシーン。
エスメラルダが「あっちへ行って!」と叫びながらダニエルの胸を両手で全力で押すと、ダニエル・フロロは、その自分の胸に軽く両手をあてて驚きと喜びを表現。エスメラルダの手のぬくもりを、「ああ・・・」と感動して感じている。そうか、エスメラルダに触れられたのは初めてなんだ・・・。全力で拒絶されてるんだけど、それでもエスメラルダの手のぬくもりが、そうか、そんなにも嬉しいんだ、フロロ・・・(涙)。女性を襲おうとするなんて行動としてはダメダメなんだけど、彼の良くも悪くも彼女を愛している気持ちが伝わってきて、せつない・・・。

そしていつもながら・・・クライマックスで大聖堂の上からカジモドとエスメラルダの処刑を見つめるシーンは圧巻。本当にダニエルのフロロは哀しい。カジモドも哀しい。カジモドはフロロを大聖堂から突き落とすけれど、憎しみじゃない。それもあるかもしれないけど、これは哀しみからなんだと思わせられる、そういう演技。

ダニエルが歌うと、フロロのソロ曲は2曲とも歌い終わると客席がヒューヒュー!ってなります。この2曲、ダニエルで既に何回も聞いたけど、今も胸が締め付けられ、そしてそれは私だけじゃないんだなあと感じます。

ある記事でダニエルの演技を、今風に書けば「神ってる」と書かれてるのがありました。(普通に書けば「神がかり的に素晴らしい」)
特に3夜めはダニエルはじめ、全員神ってる感じだったなあ。リシャールとダニエルの「フィレンツェ」もデュエット部分で声の重なりが大変美しく、二人の演技の対比もあって、すごくよかったです。


イバ・タワジ(エスメラルダ)&アンジェロ・デル・ベッキオ(カジモド)


モントリオール公演では、エスメラルダのタワジちゃんと、カジモドのアンジェロの演技がさらに深みが増していました。

「僕の家は君の家 Ma maison c'est ta maison」、これは大聖堂に逃げてきたエスメラルダにカジモドが「自分の家と思っていいんだよ」と優しく歌う、二人のデュエット曲。

ここでエスメラルダが「私はまだあなたを見るのが怖い時もあるけれど・・・」という歌詞があります。この時のタワジちゃんのうしろめたそうな表情と、自分の顔をそむけるアンジェロの悲し気な表情。どこがどう特別なのかはわからないけれど、そのあたりからじーんときて、その後二人が心を触れ合わせて笑顔で歌いあげていくあたりで、涙うるうる・・・。

・・・いや、これ泣くような歌じゃないんだけど・・・

と思ってました。この歌で涙ぐんだのは初めて。

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それからクロパンが亡くなる時のタワジちゃんの表情が圧巻だった!!
クロパンが殴られて倒れ、そこに駆けつけてクロパンを見ているエスメラルダ。おろおろするというより、「何?これは何なの?」というような、眉間にはっきり皺をよせ、驚きと混乱と怒りを同時に表したような顔。普段柔和な雰囲気のタワジちゃんが、こんなすごい表情ができるのかと、驚き。
そして、クロパンが息を引き取ると、そこから悲しみの表情に変わっていく。そして、怒り。
エスメラルダのこういう表情は初めて見た気がします。

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そして、すごく好きだったのは、捉えられていたエスメラルダをカジモドが檻をやぶって皆を救出した後のシーン。サンパピエたちも一緒に一列になって大合唱になるのですが、その時真横にいるカジモドをエスメラルダが嬉しそうにじーっと見つめてるんですよ。体は正面を向いてるけど、顔ははっきりカジモドに向けて。その瞳は恋しはじめた乙女だった・・・。

2夜めのセカンド・エスメラルダは特にそういう部分はなく(たぶん代々のエスメラルダもそうだったと思うけど)、3夜めのタワジ・アンジェロ組は、今度は二人でずーっと見つめあってた(≧▽≦)。

二人はラストで、原作通りに一緒に永遠の眠りにつきます。原作だとエスメラルダはカジモドと一緒で寂しくなくてよかったね、という程度なのですが、このタワジちゃんのカジモドに恋した表情etcを見せてもらうと、二人一緒でよかった感が大幅にアップ。

そして、3夜めで気が付きましたが、こういうシーンのあった後で、エスメラルダは「フェビュスがきたら私がここにいるって言ってね」とカジモドに頼んで眠りにつきます。そして、カジモドの「この世はなんて不公平」の歌に続くんですね。フェビュスはハンサムでお金持ちで、自分は醜く、何も持っていない・・・。

二人の関係性がうまくいってる、と感じるシーンの後だけに、このカジモドの魂の叫びがより深くつきささるんだ・・・ということを、今回初めて感じました。アンジェロ・カジモドのこの歌は絶唱で、感動ものでした。

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Angelo Del Vecchio & Jay

ジェイ(クロパン)

ジェイは凱旋公演スタート時から、「このクロパンいいわ~~~」と思ったものの、「どういいのか」が具体的に言葉が出てこなくて悩んでました。言葉に出かかってるけど、出ない感じ(笑)。何回見てもそういう感じなので、途中でもうそういうこと深く考えないようにして見てましたけど。

そして、モントリオールの3夜めにしてやっと!!彼のクロパンが表現しているのは、「渇き」なんだ・・・と気が付きました。
絶望からくる心の渇き。絶望してるけど、それでも挑んでいる、そんな感じ。声も目の表情も。
声はよく響いて、動きはシャープ。王道タイプの、かっこいいクロパンだなあ。

・・・これでようやくすっきりした(笑)。

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Richard Charest & Jay

彼についてはあまり書いてないけど、ほんとーに良いクロパンなんですよ~。
彼の曲はダンサーやアクロバットが出てくるシーンが多く、そちらを見ようと目標をたててるのに、気が付いたら目がジェイを追ってしまってることもしばしばでした。

イデス (フルール・ド・リス)

2幕目でフェビュスが「君のもとに帰るよ」を歌ってる時のイデスの表情がとても印象的!
驚きと悲しみと怒りが混じった、なんともせつない瞳。

この歌って、フェビュスの浮気告白ソングなわけで、それを聞かされてるリスの気持ちがとてもよく伝わってきて胸をしめつけられました。歌声も素敵でしたよ!

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Idesse (Fleur de Lys) & Flo Carli (Gringoire)

リシャール・シャーレ (グランゴワール)

リシャールの「ノートルダム・ド・パリ」出演回数が1000回に達しました!!
おめでとうございます~~~!!!!
生き字引のページ数がさらに増えていって、本当に素晴らしいです。

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今回、リシャールの声を聞いていて、あれ?と思ったことがありました。

・・・リシャールの声が変わってきてる・・・

今までもリシャールの声は伸びやかな美声だったけど、それにさらに艶が増してる感。
例えて言うなら、年数を経て、磨き込まれて艶と深さが増した漆黒の漆・・・。
(↑漆黒の漆の盃に酒を入れ、そこに月が映っているところを想像してください)

私が彼の声を初めて生で聞けたのは結局日本公演だったけど、そこから特に変化を感じたことはなかったんですよね。
もちろん年数の問題だとは思うけど、なんだか2017年フランス凱旋公演以降でさらに大きくスケールアップしてきている気がします。



モントリオール公演のマイ・ラストはファースト・キャストが揃いました。
セカンド・キャストもそれぞれにいいけれど、やはりファーストは光ってますね。今回のこのキャストも一つの完成形だなあと思って見ていました。

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カテコ歌ラストの「la fin de ce monde (ラ・ファン・ドゥ・ス・モンド)」の「モ~ン」の部分を歌っていると思われます


ノートルダムは2018年暮れ~2019年年明けまで、パリのパレ・デ・コングレ劇場で祝20周年記念公演をした後、2019年1月にはロンドン公演をやります。日本からはパリやロンドンは行きやすいほうだと思うので、この機会にぜひ!!

[2018年10月5日]

(8) 陽ざしの中へ:四季版ノートルダム

ノートルダムのテーマは、見る(読む)人により感じ方は様々だと思いますが、アニメ版と四季版では、最初と最後にテーマ・フレーズが挿入されています。ちょっとおもしろいのは、アニメ版ではそれぞれ少し別の言葉になっている点:

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オープニング: "Who is the monster and who is the man?"
誰が怪物で誰が人間なのか

ラスト: What makes a monster and what makes a man?
何が怪物を作り 何が人間を作るのか

これが四季版では、どちらも「What makes a monster 何が怪物を作るのか」のほうになりました。
四季版訳: 人間と怪物 どこに違いがあるのだろう
アニメ版の字幕(両方とも): 誰がモンスターで 誰が心ある人間か
アニメ版吹き替え音声: 
 [オープニング] (鐘を)鳴らすのは怪物か それとも人か [ラスト] 心優しき青年が(鐘を鳴らす)

アニメではクライマックスで、フロローがナイフでカジモドを殺そうとし、カジモドはそんなフロローでさえ助けようとします。その後でこのテーマが語られるので、余計に深く心に響くんですよね。お話が明確な上に、テーマとぴたっと合っていてとても効果的。
(ただ、アニメ吹き替え版には、テーマ・ワードはほとんど入ってなくて・・・それがとっても残念!)

アニメ版英語版で、この重要なフレーズをオープニングとラストで敢えて変えてるのもおもしろいですよね。
「Who is the monster ? 怪物なのは誰か」という単純な視点から、「What makes a monster? 何が人を怪物にするのか」という、より深い視点になっている気がします。




四季版は、テーマはちょっとはっきりしなかったかなあ・・・?
ラストで、カジモド自身は醜いカジモド・メークがなくなり、それ以外の主要キャラは全員カジモド・メークで登場します。フロローもエスメラルダもフィーバスも。

これ、わかるようでわからなくて・・・(^^;)。カジモド・メークが「人間誰でも悪いことをしうる」or「人はみな同じ」ということを言いたいんでしょうか。それなら、カジモド本人もメークそのままでよかったんじゃあ・・・とか。それより、そういう内容が物語の中で出てくるわけでもないんですよね・・・。

テーマに関して言うと、物語最後のほうでエスメラルダとフィーバスが歌う「いつか Someday」という素敵な歌。
彼女はフロローに自分のものになれと迫られ、さもなければ死刑という状況の中、二人は最後の時間を過ごします。

いつか 人がみんな賢くなる時がくる
祈るわ 争いの炎が消えることを
いつか 人がみんな平等に暮らせる
そんな明るい未来が必ずくると


・・・いや、君たち別に身分違いの恋に苦しんでるわけじゃないよね。今君たちが窮地に陥ってるのは、フロローの個人的欲望や策略からだよね。平等な世界になっても、この手の毒牙は消えないと思うよ(爆)。

観劇後の帰り道、他の人が言っていたのですが、「個人の欲望を『悪』と言ってしまっている」と聞いて、「なるほどな~」と思いました。この歌の感想というよりは、作品全体に対するものだと思いますが、後半ちょっとそういう感じがありました。




さて、四季版ノートルダムの代表曲といえば、やはり「陽ざしの中へ」でしょう!
大聖堂にほとんど閉じこもりきりのカジモドが、外の世界へのあこがれを歌う歌。

そうだ 今日だけは 夢をかなえよう
一度でいいから ここを抜け出し
踏み出そう 陽ざしの中へ


この歌の一番と二番の最後、曲が最高潮にのびるところで、「陽ざしの中へ」という言葉が歌われます。母音の数が音の数とぴったり合っていて、素敵感ぶわ~~っ!

原題は「Out there」で、「外へ」という意味。「陽ざしの中へ」という表現は「外」を強く感じさせる言葉だし、そこには「明るさ」「希望」も含んだ表現になっています。これだけで、「外へのあこがれ」が凝縮されてますよね。

英語も歌の最後は「out there」で終わり、同じ意味で盛り上げて終わらせています。そのオリジナルの「旋律X言葉」効果を日本語版でも存分に発揮させているんですよね。

さらにすごいなと思うのは、言葉の配置。実は英語版には「太陽」という言葉が中盤に一度出てきます。
「And out there, Living in the sun, Give me one day out there」
でも、四季版でそれを感じさせる言葉はラストの「陽ざしの中へ」だけです。

つまり、中盤では敢えて「太陽」の言葉を取り去って繰り返しになることを避け、ラストの一番盛り上がる部分だけに「陽ざしの中へ」を持ってきて、そのパワーを凝縮させてから一気に爆発させている形です。

タイトルとしてもぴしゃっとはまっているし、歌詞の吹き替え和訳史上に残る名訳ではないかと思います。




なんにしても、カジモドもエスメラルダもフィーバスも他のみんなも素敵でした~~~~~♪♪
鐘も素敵だったよ!! ←重要事項 (動かないけど(笑))
カジモドとエスメラルダがとても素敵に体現されていて、個人的には彼らと会話しながら鑑賞してました(笑)。

ぜひアニメも見てくださいね(内容的に字幕付きをオススメ)。ノートルダム大聖堂や鐘が鳴らされる様子は圧巻。CGもなかった時代にあの描写は出色の出来だと思います。アニメのガーゴイルたちはかわいいし、エスメラルダは美女だし、そしてフィーバスがいい意味でキザなカッコよさがあります。

そして、一生に一度はぜひパリのノールダム大聖堂へ。狭い階段ぐるぐる登って、ガーゴイルに会いに行こう!早朝の聖堂内の回廊を歩いていると、フロロがいるかも・・・って思えますよ♪

そして原作やフレンチ版もオススメです!フレンチ版は原作をベースにしているので、原作のストーリーを目と耳で味わうのにぴったりです(こちらも少しオリジナル性はありますけどね)。

どうぞ、どっぷりノートルダムの世界にはまってくださいね。


~ Fin ~
長文におつきあいいただいてありがとうございました。

(7) カジモドの名前の本当の意味 [←前]




四季版「ノートルダムの鐘」感想 (2017)

(1) 関連作品の概要
(2) カジモドの結婚
(3) エスメラルダとクロパンの火花な関係
(4) 神父と判事は似て非なるもの
(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか
(6) 弟が示すフロローの道
(7) カジモドの名前の本当の意味
(8) 陽ざしの中へ


(7) カジモドの名前の本当の意味:四季版ノートルダム

ノートルダムの主人公(一応)の「カジモド Quasimodo 」の名前の意味はご存じでしょうか。
アニメ版や四季版を見て、「え?『できそこない』でしょ?」と思ったあなた、実はちょっと違うんです。

1705.jpg
↑エスメラルダとヴィクトル・ユゴー

原作でも、カジモドにその名を与えたのは、カジモドを拾ったフロロです。
カジモドを拾った日は、「カジモド・サンデー(白衣の主日)」というカトリックの祝日、だから名前は「カジモド」。極めてシンプルなネーミングです。

なぜこの日が「カジモド」という名前かというと、ミサの祈りの文の冒頭のラテン語「Quasi modo geniti infantes(生まれたばかりの赤子のごとく)」から来ています。ラテン語の「quasi modo」 は、「as, if」「although」などの意味があるようですが、「できそこない」というにはかなり遠い意味だと思います。

それに、フランス人にとっていくらラテン語が外国語とはいっても、カトリックの祝日の名前ですよ!「できそこない」なんて意味はありえなくないでしょうか。(ちなみに、2000年にこの祝日は「神のいつくしみの主日」と名前が変更になったそうです。名前が変わっても、そういうありがたい祝日ということですよね。)

では、アニメ版や四季版の意味はどこから来ているのでしょうか?

それは、原作に書かれたもう一つの理由です。その部分の全文訳 (Mew訳):

彼(クロード・フロロ)は、自分の養子に洗礼を施し、「カジモド」と名付けた。それは拾った日がカジモド・サンデーだったからだが、同時にその名が、この哀れで小さな生き物の不完全さとかろうじて人間の輪郭を保っている姿に似つかわしいとも思ったからだ。実際、カジモドは独眼で背中曲がりで膝曲がり、なんとか「ほぼ (カジモド)」子供とおぼしき状態だったのだ。

私は「ほぼ」というところに「カジモド」と入れましたが、フランス語原文には何も入っていません。太字にした「カジモド」と「ほぼ」の部分が斜体字になっているだけです。

フランス語で「quasi (カジ)」という単語は、「ほぼ」という意味を表す言葉です。「カジモド」の「カジ」が「ほぼ」という意味を連想させるので、子供の体の様子がなんだかちょっとそれっぽい、ということなのでしょう。つまり、ここでユゴーが言っているのは、「カジモド」=「ほぼ」ということ。

アニメ版は、ここの部分を拡大解釈して、「カジモド」=「できそこない half formed」という意味に仕立て上げたのだろうと思います。
アニメ版のフロローは冒頭から冷酷なキャラですから、それを強調するのにぴったりなエピソードですよね。原作を読んでからアニメを見た時、原作と意味は違うけれど、うまい使い方だなあと思いました。



名前つながりで言うと、四季版ではフィーバスの名前は変更になってるのですよね。

原作: フェビュス・ド・シャトーペール
四季版: フィーバス・ド・マルタン

・・・フィーバスって「フェビュスPhoebus」の英語読みですが、「マルタン Martin」って英語読みしたら「マーティン」なのでは・・・(なぜ英語読みとフランス語読みが合体したんだろう・・・?)。まあそこはいいのですが、なぜそもそも名前を変える必要性があったのか。

変更後の名前にも「ド」が入っていますが、フランス人の名前で「ド」が入るのは、貴族の証でもありました(貴族が存在した当時)。
「ベルサイユのばら」の主人公オスカルにも「ド」がありますね(オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ)。

原作のフェビュスは、なにしろ「王室射手隊隊長」です。しかも、王室親衛隊の隊長の服を着てます(当時服装は身分を表してるはずなので、その役職についてるということですね。兼任?)。つまり、中枢で王様仕えをしています。しかも、婚約者のフルール・ド・リスは、天下のノートルダム大聖堂のど真ん前に屋敷を構える家柄のお嬢様。そこらへんの貴族と婚約なんぞしないでしょう。つまり、フェビュス・ド・シャトーペール君は、かなり上流の貴族であると思われます(「名門の出」ともはっきり書かれています)。


さて四季版を見ていた時に、フィーバスがフロローに反旗を翻して警備隊隊長の職を解かれた後のシーン。フィーバスはエスメラルダに「何もかもなくしてしまった」と言います。だから、「君についていく」と。

・・・いやいやいや、君、貴族だよね。親の財産あるよね。いきなり「何もかもなくしてしまった」って言うの、ちょっと早くない?

原作に登場する詩人グランゴワールは、仕事がうまくいかなかった後にガチな文無しになって街をさまよい、流れ流れてジプシーたちと大道芸を披露したりするのですが、フィーバスよ、君はグランゴワールじゃないんだから(爆)。

もっとも、四季版のフィーバスにはあんまり貴族感ないんですよね(笑)。(アニメ版フィーバスは、白馬に乗っている分ちょっと貴族感ある)。ってことは、四季版フィーバスは下級貴族ってことなのかな。財産なくて、警備隊隊長になったのは、超すげー出世だったのかしらん。

じゃあ、四季版フィーバスが名前変わったのは、「上流貴族じゃなくて、下流貴族でーす」ってこと??でも、別に名前を変えなくったって設定は普通に変更可能なので、わざわざ名前を変える必要はないし・・・。

うーむ、謎。誰かその理由がわかったら、教えてください。

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<追記>・・・と書いたら、素晴らしいヒントをいただきました!!

「マルタン Martin」は、聖人の名前から来ているのではないか、と。
Saint Martin (フランス語読みでサン・マルタン)は聖マルティヌス(聖マルチノ)で、フランス(フランク王国)の守護聖人の一人なのです。

フランスの守護聖人・・・!!

一方、我らがシャトーペール君の名前はというと、分解すると「 Châteaupers=château シャトー(城) pers ペール(青みがかった)」となるので、「青い城」。しかも、ファーストネームは「太陽」という意味ですから、日本語で言うなら「青城 陽(せいじょう・あきら)」みたいな感じでしょうか。いかにもバラしょって立ってそうなイケメン色男な名前ですよね(笑)。

せっかくなのでいろいろ調べてみたところ、シャトーペールというのは昔から実在する貴族の名前のようです。(「17世紀まで続く領主の名前」だとか「貴族で大修道院の修道士」だとか出てきました。*同じ家系がどうかは不明です)

しかも、その名前の紋章までありました。フランスの紋章というのは必ずしも貴族だけのものではないそうですが、それでもその名前で認識されるレベルの紋章があるというのは、シャトーペール家が相応の貴族だったことの証のような気がします。

原作やフレンチ版では、いかにもイケイケな貴族らしい名前、四季版ではクライマックス辺りで「市民よ立ち上がれ!」と声をかけたりする役柄なので、フランスの守護聖人の名前がぴったりですよね。

いただいたご意見の中に「フランス民衆を守り光をもたらすもの、という意味ならヒーローにふさわしいのではないでしょうか。」と書かれていて、「うぉぉぉぉおおお!その通りだああああ」と萌えてしまいました(^^)。

なるほど、すっきりしました!!
なんでだろう?って考えた時に「名前から攻めてみる」ことを全く考えなかった私には、目からウロコの発想で脱帽。
情報をお寄せいただいた、こてふトナルさん、ありがとうございました!!




名前とは関係ありませんが、もう一つ「道化の祭り」について。

アニメ版や四季版では、「道化の祭り」でカジモドが道化の法王となった後、なぜかその場の空気が転じて、それまでお祭り騒ぎ状態でカジモドを法王と言っていた周囲の市民が、一斉にカジモドに物の投げたり、襲いかかるシーンがあります(そしてエスメラルダが水を与える場面へと続く)。
でも、原作は違います。

原作やフレンチ版では、ここは本来、カジモドが誘拐未遂という罪を犯したために拷問を受けるシーンです。フロロがそそのかしたとはいえカジモドは実行犯でしたから、拷問はやむをえないものでした。アニメ版や四季版のような市民による言われなき集団暴力ではないのですね。

ユゴー先生自身がそんなシーンを書いたわけではないことだけは、ちょっとお伝えしておきたいと思います。


(6) 弟が示すフロローの道 [←前] ◆
[次→] (8) 陽ざしの中へ




四季版「ノートルダムの鐘」感想 (2017)

(1) 関連作品の概要
(2) カジモドの結婚
(3) エスメラルダとクロパンの火花な関係
(4) 神父と判事は似て非なるもの
(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか
(6) 弟が示すフロローの道
(7) カジモドの名前の本当の意味
(8) 陽ざしの中へ






(6) 弟が示すフロローの道:四季版ノートルダム

原作では、フロロ(クロード・フロロ)の弟ジャンが登場します。物語の年(1482年)時点で、弟は16歳の学生。兄と違って放蕩者。結構登場シーンの多いキャラではあるものの、ストーリーの骨格部分に絡んでこないためか、派生作品にはあまり登場しません。

そんな弟が四季版で登場!!しかも放蕩者設定!(四季版の名前は「ジェアン」)
弟、キターーーーーーーーーッッ!!(≧∇≦)

・・・はい、もう何でも嬉しいわけです(笑)。

しかし、原作と同じなのはその程度。まずは原作のジャンについて、ちょっと紹介しましょう。

物語におけるジャンの役割は、大聖堂にいる兄クロードの姿を描き出し、友人フェビュス(フィーバス)との交流を通じて街の様子を読者に見せ、別々の世界であるそれらを絶妙につないでいます。特に、兄の人間らしい部分を読者に感じさせる重要な役割を担っています。

神学などの学問にいそしんできたクロード・フロロは、19歳の時に上流ブルジョワの両親をペストで失くし、いきなり家長となります。その時まだ乳飲み子だった弟のジャンが残されるのですが、それまで勉学に没頭してきた彼は弟のことがかわいくてたまらなくなり、全力で弟を育てようと誓います。

そんな頃、大聖堂の前に捨てられていた4歳頃の子供がカジモド。クロードは万一自分がいなくなった時に幼い弟ジャンがこのようになるのではと思うと、醜い姿をしていたその子を見捨てることが不憫になり、また、子供を拾うことで弟のための徳のポイントをためておきたいという気持ちもあって、クロードはカジモドを拾うことにします。

つまりその行動は、彼の弟への深い愛情を示しているのですね。

一方のジャンはというと、兄が期待したようには育たず、学生となった彼は遊んでばかりでしょっちゅう兄に金を無心しにやってきます。クロードは弟にお説教しつつも、しぶしぶ金を渡しています。やっぱりこの辺でも、クロード・フロロの人間らしさを感じます。




さて、四季版のクロードとジェアンはというと、「みなしご」設定で、二人の年齢も近い感じ。二人は大聖堂で育ちますが、真面目な兄に対して、弟は遊び者。女を連れ込んで、兄に遊ぶようけしかけたりします。クロードは、結果的に女のことを大聖堂の司祭に隠さず注進。これって冷たいことのようにも見えますが、弟の教育という観点から見ても、彼の行動は間違ってませんよね。

しかし、司祭は弟に破門を言い渡します。驚くクロード、でもどうしようもありません。ジェアンはジプシーと出て行ってしまいます。

そして数年後、ジェアンから手紙が届きます。兄が急いで駆けつけてみると、ジェアンの彼女は流行り病でなくなり、弟もまた病に侵されていました。ジェアンは自分の赤ん坊をクロードに託します。赤ん坊を見て「怪物だ!」と驚く兄に、「頼むんじゃなかった」と嘆く弟。そして弟は息絶えます。

クロードは、これは神からの試練だと思い、そしてこの子を自分のように正しい人間に育てようと決心します。



・・・まさかの、フロローとカジモド血縁設定!(伯父と甥)
・・・でもその割には、血縁設定はほぼ軽やかにスルー(笑)。弟のことは少し出てきますが、「お前は甥だから」みたいなセリフは全然ありません。(最後のほうで「息子のように思っているよ」とフロローは言いますが、それは別に血縁じゃなくても育ての親のフロローが言ってもおかしくないことですしね)

原作では、そもそもカジモドのほうがジャンより年上です(カジモド20歳、ジャン16歳)。血縁関係はありません。
四季版とアニメ版は、冒頭部分は全く別。アニメ版では、フロローのジプシー狩りと彼の冷酷さが語られます。一方四季版は冒頭で弟を登場させ、冷酷な一面は影を潜めました。真面目で人間的な面を持ったキャラクターです。そのはずなのですが・・・。

出て行った弟のもとへ駆けつけた兄クロードは、優しく弟に一緒に帰ろうと諭します。しかし、弟の子供カジモドの姿を見た時に弟に「悪人は罰を受ける」と言います。この言葉、ちょっと違和感あるんですよね。

「これは罰だ」という言い方ならわかります。それは「今までお前が行ってきた所業に対して」ということだから。でもこの状況でこの表現だと、愛してきた弟を「悪人」と言ってるわけで、そんな言い方はないんじゃないかと・・・。
さらに、引き取ることにした赤ん坊に「できそこない」というひどい名前を与えるフロロー。

アニメでもフロローがこの名を与えるのですが、それは彼の冷酷さをさらに際立たせ、とても効果的な要素になっています。
しかし四季版では、フロローはカジモドを「正しい人間になるように」と思って育てることにしたわけです。何より自分の実の甥ですよ!

そんな名前で「正しい人間になれ」って言われても・・・(困)。(←でもカジモドはいい奴に成長しましたけどね)

繰り返しますが、四季版フロローは神父。こんな名前をつけたら人間性を疑われて、神父としての信頼も将来性もがた落ちじゃないでしょうか。フロローの基本設定はアニメ版とは根本的に違うのに、アニメ版の流れをそのまま持ってきているので、ちょっとちぐはぐな感じになっている気がします(ちなみに原作での名前の意味合いは違います←後述)




フロローの言葉で、もう一つ。
フロローがカジモドに、守ってやるから外へ出るなと諭すシーン。そこでフロローはカジモドにゆっくりこう言います。
「お前は醜い 気持ち悪い」

これって、「お前は気持ち悪い」っていう文ですよね・・・。しぐさや言葉なども含めて「物」に対して使うならわかりますが、一人の人間自身に対して「気持ち悪い」って言うのは、その人の全否定みたいなものじゃないでしょうか・・・。これを聞いた時、心が凍ったみたいに悲しくなりました。しかも、カジモドはその言葉を復唱するんですよね(;;)。

「醜い」というのは、まだ理解できます。単に容姿のことを語ってるだけから。確かにダイレクトな表現ですが、意味的に考えれば「お前は器量よしじゃないけど、その分人に優しくするんだよ」と親が我が子に愛情を持って語ることは今でも普通にありますよね。

原文の英語は「You are deformed, and you are ugly」。
アニメ版にも同じ表現があり、日本語訳は「お前は人と違う。お前は醜い」。
これが意味としても表現としても、ちょうどいいものだと思いますけど、四季版はなぜこの訳にしなかったんでしょうね・・・。字数や語感的な問題なら、「お前は醜い 人とは違う」にすればだいたい解決できたのでは・・・。
今からでもいいので、ここの表現変えてほしいんだけどなあ・・・。



前半、フロローをどう捉えればいいのかわからなくて、正直かなり戸惑いました。特に最初のほうは、フロローは基本的には真面目な人間(カタブツ・レベルだけど)ですが、出てくる言葉(歌詞)が時々それにそぐわないんですよね。

じっくり考えてみて、結局のところ、四季版もフロローの性格設定はアニメとあまり変わってないのかもしれないなと思っています。

四季版のフロローは冒頭で「いい奴」寄りの設定だし、物語の最初でフロローが堕ちてしまうような感じはないんです。だからその流れの通りにフロローを捉えていたのですが、そうすると、時々闇な言葉を発するフロローがわからなくなるんですね。でも、既に最初からダークな性格だと捉えると、そういうフロローの言動がすんなり理解できる気がしました。




四季版でジェアンの話はそれ以降ほとんど出てきませんが、クライマックシ・シーンでフロローがカジモドと言い合っている時に弟の話をします。「弟を愛していた」「でもあいつは邪悪だった、弱かった」と。

この「邪悪」っていう言葉も、ちょっと違和感ありました。「邪悪な心」ならわかるけど、人間自身に対して「あいつは邪悪な奴」なんて普通使いませんよね(ガチな悪魔レベルじゃないかな)。その相手に愛情を感じない言葉なんですよね・・・。

いろいろ考えてみると、四季版では弟の話が出てくると、フロローは時々言葉でネガティブ要素を発揮してる気がします。
原作で弟が示したのは兄の良い一面だったのに対し、四季版では兄を悪い方向へ持っていってる感じですね。
作品によって、いろいろ描き方が違うのはおもしろいなと思います。


(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか [←前] ◆
[次→] (7) カジモドの名前の本当の意味




四季版「ノートルダムの鐘」感想 (2017)

(1) 関連作品の概要
(2) カジモドの結婚
(3) エスメラルダとクロパンの火花な関係
(4) 神父と判事は似て非なるもの
(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか
(6) 弟が示すフロローの道
(7) カジモドの名前の本当の意味
(8) 陽ざしの中へ


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Mew

Author : Mew

2013年来日公演したミュージカル
ノートルダム・ド・パリ」、及びフレンミュージカルを応援中!ノートルダムでオリジナル・グランゴワールを務めたブリュノ・ペルティエも熱く応援中!


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