ノートルダム・ド・パリ応援隊

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(8) 陽ざしの中へ:四季版ノートルダム

ノートルダムのテーマは、見る(読む)人により感じ方は様々だと思いますが、アニメ版と四季版では、最初と最後にテーマ・フレーズが挿入されています。ちょっとおもしろいのは、アニメ版ではそれぞれ少し別の言葉になっている点:

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オープニング: "Who is the monster and who is the man?"
誰が怪物で誰が人間なのか

ラスト: What makes a monster and what makes a man?
何が怪物を作り 何が人間を作るのか

これが四季版では、どちらも「What makes a monster 何が怪物を作るのか」のほうになりました。
四季版訳: 人間と怪物 どこに違いがあるのだろう
アニメ版の字幕(両方とも): 誰がモンスターで 誰が心ある人間か
アニメ版吹き替え音声: 
 [オープニング] (鐘を)鳴らすのは怪物か それとも人か [ラスト] 心優しき青年が(鐘を鳴らす)

アニメではクライマックスで、フロローがナイフでカジモドを殺そうとし、カジモドはそんなフロローでさえ助けようとします。その後でこのテーマが語られるので、余計に深く心に響くんですよね。お話が明確な上に、テーマとぴたっと合っていてとても効果的。
(ただ、アニメ吹き替え版には、テーマ・ワードはほとんど入ってなくて・・・それがとっても残念!)

アニメ版英語版で、この重要なフレーズをオープニングとラストで敢えて変えてるのもおもしろいですよね。
「Who is the monster ? 怪物なのは誰か」という単純な視点から、「What makes a monster? 何が人を怪物にするのか」という、より深い視点になっている気がします。




四季版は、テーマはちょっとはっきりしなかったかなあ・・・?
ラストで、カジモド自身は醜いカジモド・メークがなくなり、それ以外の主要キャラは全員カジモド・メークで登場します。フロローもエスメラルダもフィーバスも。

これ、わかるようでわからなくて・・・(^^;)。カジモド・メークが「人間誰でも悪いことをしうる」or「人はみな同じ」ということを言いたいんでしょうか。それなら、カジモド本人もメークそのままでよかったんじゃあ・・・とか。それより、そういう内容が物語の中で出てくるわけでもないんですよね・・・。

テーマに関して言うと、物語最後のほうでエスメラルダとフィーバスが歌う「いつか Someday」という素敵な歌。
彼女はフロローに自分のものになれと迫られ、さもなければ死刑という状況の中、二人は最後の時間を過ごします。

いつか 人がみんな賢くなる時がくる
祈るわ 争いの炎が消えることを
いつか 人がみんな平等に暮らせる
そんな明るい未来が必ずくると


・・・いや、君たち別に身分違いの恋に苦しんでるわけじゃないよね。今君たちが窮地に陥ってるのは、フロローの個人的欲望や策略からだよね。平等な世界になっても、この手の毒牙は消えないと思うよ(爆)。

観劇後の帰り道、他の人が言っていたのですが、「個人の欲望を『悪』と言ってしまっている」と聞いて、「なるほどな~」と思いました。この歌の感想というよりは、作品全体に対するものだと思いますが、後半ちょっとそういう感じがありました。




さて、四季版ノートルダムの代表曲といえば、やはり「陽ざしの中へ」でしょう!
大聖堂にほとんど閉じこもりきりのカジモドが、外の世界へのあこがれを歌う歌。

そうだ 今日だけは 夢をかなえよう
一度でいいから ここを抜け出し
踏み出そう 陽ざしの中へ


この歌の一番と二番の最後、曲が最高潮にのびるところで、「陽ざしの中へ」という言葉が歌われます。母音の数が音の数とぴったり合っていて、素敵感ぶわ~~っ!

原題は「Out there」で、「外へ」という意味。「陽ざしの中へ」という表現は「外」を強く感じさせる言葉だし、そこには「明るさ」「希望」も含んだ表現になっています。これだけで、「外へのあこがれ」が凝縮されてますよね。

英語も歌の最後は「out there」で終わり、同じ意味で盛り上げて終わらせています。そのオリジナルの「旋律X言葉」効果を日本語版でも存分に発揮させているんですよね。

さらにすごいなと思うのは、言葉の配置。実は英語版には「太陽」という言葉が中盤に一度出てきます。
「And out there, Living in the sun, Give me one day out there」
でも、四季版でそれを感じさせる言葉はラストの「陽ざしの中へ」だけです。

つまり、中盤では敢えて「太陽」の言葉を取り去って繰り返しになることを避け、ラストの一番盛り上がる部分だけに「陽ざしの中へ」を持ってきて、そのパワーを凝縮させてから一気に爆発させている形です。

タイトルとしてもぴしゃっとはまっているし、歌詞の吹き替え和訳史上に残る名訳ではないかと思います。




なんにしても、カジモドもエスメラルダもフィーバスも他のみんなも素敵でした~~~~~♪♪
鐘も素敵だったよ!! ←重要事項 (動かないけど(笑))
カジモドとエスメラルダがとても素敵に体現されていて、個人的には彼らと会話しながら鑑賞してました(笑)。

ぜひアニメも見てくださいね(内容的に字幕付きをオススメ)。ノートルダム大聖堂や鐘が鳴らされる様子は圧巻。CGもなかった時代にあの描写は出色の出来だと思います。アニメのガーゴイルたちはかわいいし、エスメラルダは美女だし、そしてフィーバスがいい意味でキザなカッコよさがあります。

そして、一生に一度はぜひパリのノールダム大聖堂へ。狭い階段ぐるぐる登って、ガーゴイルに会いに行こう!早朝の聖堂内の回廊を歩いていると、フロロがいるかも・・・って思えますよ♪

そして原作やフレンチ版もオススメです!フレンチ版は原作をベースにしているので、原作のストーリーを目と耳で味わうのにぴったりです(こちらも少しオリジナル性はありますけどね)。

どうぞ、どっぷりノートルダムの世界にはまってくださいね。


~ Fin ~
長文におつきあいいただいてありがとうございました。

(7) カジモドの名前の本当の意味 [←前]




四季版「ノートルダムの鐘」感想 (2017)

(1) 関連作品の概要
(2) カジモドの結婚
(3) エスメラルダとクロパンの火花な関係
(4) 神父と判事は似て非なるもの
(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか
(6) 弟が示すフロローの道
(7) カジモドの名前の本当の意味
(8) 陽ざしの中へ


(7) カジモドの名前の本当の意味:四季版ノートルダム

ノートルダムの主人公(一応)の「カジモド Quasimodo 」の名前の意味はご存じでしょうか。
アニメ版や四季版を見て、「え?『できそこない』でしょ?」と思ったあなた、実はちょっと違うんです。

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↑エスメラルダとヴィクトル・ユゴー

原作でも、カジモドにその名を与えたのは、カジモドを拾ったフロロです。
カジモドを拾った日は、「カジモド・サンデー(白衣の主日)」というカトリックの祝日、だから名前は「カジモド」。極めてシンプルなネーミングです。

なぜこの日が「カジモド」という名前かというと、ミサの祈りの文の冒頭のラテン語「Quasi modo geniti infantes(生まれたばかりの赤子のごとく)」から来ています。ラテン語の「quasi modo」 は、「as, if」「although」などの意味があるようですが、「できそこない」というにはかなり遠い意味だと思います。

それに、フランス人にとっていくらラテン語が外国語とはいっても、カトリックの祝日の名前ですよ!「できそこない」なんて意味はありえなくないでしょうか。(ちなみに、2000年にこの祝日は「神のいつくしみの主日」と名前が変更になったそうです。名前が変わっても、そういうありがたい祝日ということですよね。)

では、アニメ版や四季版の意味はどこから来ているのでしょうか?

それは、原作に書かれたもう一つの理由です。その部分の全文訳 (Mew訳):

彼(クロード・フロロ)は、自分の養子に洗礼を施し、「カジモド」と名付けた。それは拾った日がカジモド・サンデーだったからだが、同時にその名が、この哀れで小さな生き物の不完全さとかろうじて人間の輪郭を保っている姿に似つかわしいとも思ったからだ。実際、カジモドは独眼で背中曲がりで膝曲がり、なんとか「ほぼ (カジモド)」子供とおぼしき状態だったのだ。

私は「ほぼ」というところに「カジモド」と入れましたが、フランス語原文には何も入っていません。太字にした「カジモド」と「ほぼ」の部分が斜体字になっているだけです。

フランス語で「quasi (カジ)」という単語は、「ほぼ」という意味を表す言葉です。「カジモド」の「カジ」が「ほぼ」という意味を連想させるので、子供の体の様子がなんだかちょっとそれっぽい、ということなのでしょう。つまり、ここでユゴーが言っているのは、「カジモド」=「ほぼ」ということ。

アニメ版は、ここの部分を拡大解釈して、「カジモド」=「できそこない half formed」という意味に仕立て上げたのだろうと思います。
アニメ版のフロローは冒頭から冷酷なキャラですから、それを強調するのにぴったりなエピソードですよね。原作を読んでからアニメを見た時、原作と意味は違うけれど、うまい使い方だなあと思いました。



名前つながりで言うと、四季版ではフィーバスの名前は変更になってるのですよね。

原作: フェビュス・ド・シャトーペール
四季版: フィーバス・ド・マルタン

・・・フィーバスって「フェビュスPhoebus」の英語読みですが、「マルタン Martin」って英語読みしたら「マーティン」なのでは・・・(なぜ英語読みとフランス語読みが合体したんだろう・・・?)。まあそこはいいのですが、なぜそもそも名前を変える必要性があったのか。

変更後の名前にも「ド」が入っていますが、フランス人の名前で「ド」が入るのは、貴族の証でもありました(貴族が存在した当時)。
「ベルサイユのばら」の主人公オスカルにも「ド」がありますね(オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ)。

原作のフェビュスは、なにしろ「王室射手隊隊長」です。しかも、王室親衛隊の隊長の服を着てます(当時服装は身分を表してるはずなので、その役職についてるということですね。兼任?)。つまり、中枢で王様仕えをしています。しかも、婚約者のフルール・ド・リスは、天下のノートルダム大聖堂のど真ん前に屋敷を構える家柄のお嬢様。そこらへんの貴族と婚約なんぞしないでしょう。つまり、フェビュス・ド・シャトーペール君は、かなり上流の貴族であると思われます(「名門の出」ともはっきり書かれています)。


さて四季版を見ていた時に、フィーバスがフロローに反旗を翻して警備隊隊長の職を解かれた後のシーン。フィーバスはエスメラルダに「何もかもなくしてしまった」と言います。だから、「君についていく」と。

・・・いやいやいや、君、貴族だよね。親の財産あるよね。いきなり「何もかもなくしてしまった」って言うの、ちょっと早くない?

原作に登場する詩人グランゴワールは、仕事がうまくいかなかった後にガチな文無しになって街をさまよい、流れ流れてジプシーたちと大道芸を披露したりするのですが、フィーバスよ、君はグランゴワールじゃないんだから(爆)。

もっとも、四季版のフィーバスにはあんまり貴族感ないんですよね(笑)。(アニメ版フィーバスは、白馬に乗っている分ちょっと貴族感ある)。ってことは、四季版フィーバスは下級貴族ってことなのかな。財産なくて、警備隊隊長になったのは、超すげー出世だったのかしらん。

じゃあ、四季版フィーバスが名前変わったのは、「上流貴族じゃなくて、下流貴族でーす」ってこと??でも、別に名前を変えなくったって設定は普通に変更可能なので、わざわざ名前を変える必要はないし・・・。

うーむ、謎。誰かその理由がわかったら、教えてください。

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<追記>・・・と書いたら、素晴らしいヒントをいただきました!!

「マルタン Martin」は、聖人の名前から来ているのではないか、と。
Saint Martin (フランス語読みでサン・マルタン)は聖マルティヌス(聖マルチノ)で、フランス(フランク王国)の守護聖人の一人なのです。

フランスの守護聖人・・・!!

一方、我らがシャトーペール君の名前はというと、分解すると「 Châteaupers=château シャトー(城) pers ペール(青みがかった)」となるので、「青い城」。しかも、ファーストネームは「太陽」という意味ですから、日本語で言うなら「青城 陽(せいじょう・あきら)」みたいな感じでしょうか。いかにもバラしょって立ってそうなイケメン色男な名前ですよね(笑)。

せっかくなのでいろいろ調べてみたところ、シャトーペールというのは昔から実在する貴族の名前のようです。(「17世紀まで続く領主の名前」だとか「貴族で大修道院の修道士」だとか出てきました。*同じ家系がどうかは不明です)

しかも、その名前の紋章までありました。フランスの紋章というのは必ずしも貴族だけのものではないそうですが、それでもその名前で認識されるレベルの紋章があるというのは、シャトーペール家が相応の貴族だったことの証のような気がします。

原作やフレンチ版では、いかにもイケイケな貴族らしい名前、四季版ではクライマックス辺りで「市民よ立ち上がれ!」と声をかけたりする役柄なので、フランスの守護聖人の名前がぴったりですよね。

いただいたご意見の中に「フランス民衆を守り光をもたらすもの、という意味ならヒーローにふさわしいのではないでしょうか。」と書かれていて、「うぉぉぉぉおおお!その通りだああああ」と萌えてしまいました(^^)。

なるほど、すっきりしました!!
なんでだろう?って考えた時に「名前から攻めてみる」ことを全く考えなかった私には、目からウロコの発想で脱帽。
情報をお寄せいただいた、こてふトナルさん、ありがとうございました!!




名前とは関係ありませんが、もう一つ「道化の祭り」について。

アニメ版や四季版では、「道化の祭り」でカジモドが道化の法王となった後、なぜかその場の空気が転じて、それまでお祭り騒ぎ状態でカジモドを法王と言っていた周囲の市民が、一斉にカジモドに物の投げたり、襲いかかるシーンがあります(そしてエスメラルダが水を与える場面へと続く)。
でも、原作は違います。

原作やフレンチ版では、ここは本来、カジモドが誘拐未遂という罪を犯したために拷問を受けるシーンです。フロロがそそのかしたとはいえカジモドは実行犯でしたから、拷問はやむをえないものでした。アニメ版や四季版のような市民による言われなき集団暴力ではないのですね。

ユゴー先生自身がそんなシーンを書いたわけではないことだけは、ちょっとお伝えしておきたいと思います。


(6) 弟が示すフロローの道 [←前] ◆
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四季版「ノートルダムの鐘」感想 (2017)

(1) 関連作品の概要
(2) カジモドの結婚
(3) エスメラルダとクロパンの火花な関係
(4) 神父と判事は似て非なるもの
(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか
(6) 弟が示すフロローの道
(7) カジモドの名前の本当の意味
(8) 陽ざしの中へ






(6) 弟が示すフロローの道:四季版ノートルダム

原作では、フロロ(クロード・フロロ)の弟ジャンが登場します。物語の年(1482年)時点で、弟は16歳の学生。兄と違って放蕩者。結構登場シーンの多いキャラではあるものの、ストーリーの骨格部分に絡んでこないためか、派生作品にはあまり登場しません。

そんな弟が四季版で登場!!しかも放蕩者設定!(四季版の名前は「ジェアン」)
弟、キターーーーーーーーーッッ!!(≧∇≦)

・・・はい、もう何でも嬉しいわけです(笑)。

しかし、原作と同じなのはその程度。まずは原作のジャンについて、ちょっと紹介しましょう。

物語におけるジャンの役割は、大聖堂にいる兄クロードの姿を描き出し、友人フェビュス(フィーバス)との交流を通じて街の様子を読者に見せ、別々の世界であるそれらを絶妙につないでいます。特に、兄の人間らしい部分を読者に感じさせる重要な役割を担っています。

神学などの学問にいそしんできたクロード・フロロは、19歳の時に上流ブルジョワの両親をペストで失くし、いきなり家長となります。その時まだ乳飲み子だった弟のジャンが残されるのですが、それまで勉学に没頭してきた彼は弟のことがかわいくてたまらなくなり、全力で弟を育てようと誓います。

そんな頃、大聖堂の前に捨てられていた4歳頃の子供がカジモド。クロードは万一自分がいなくなった時に幼い弟ジャンがこのようになるのではと思うと、醜い姿をしていたその子を見捨てることが不憫になり、また、子供を拾うことで弟のための徳のポイントをためておきたいという気持ちもあって、クロードはカジモドを拾うことにします。

つまりその行動は、彼の弟への深い愛情を示しているのですね。

一方のジャンはというと、兄が期待したようには育たず、学生となった彼は遊んでばかりでしょっちゅう兄に金を無心しにやってきます。クロードは弟にお説教しつつも、しぶしぶ金を渡しています。やっぱりこの辺でも、クロード・フロロの人間らしさを感じます。




さて、四季版のクロードとジェアンはというと、「みなしご」設定で、二人の年齢も近い感じ。二人は大聖堂で育ちますが、真面目な兄に対して、弟は遊び者。女を連れ込んで、兄に遊ぶようけしかけたりします。クロードは、結果的に女のことを大聖堂の司祭に隠さず注進。これって冷たいことのようにも見えますが、弟の教育という観点から見ても、彼の行動は間違ってませんよね。

しかし、司祭は弟に破門を言い渡します。驚くクロード、でもどうしようもありません。ジェアンはジプシーと出て行ってしまいます。

そして数年後、ジェアンから手紙が届きます。兄が急いで駆けつけてみると、ジェアンの彼女は流行り病でなくなり、弟もまた病に侵されていました。ジェアンは自分の赤ん坊をクロードに託します。赤ん坊を見て「怪物だ!」と驚く兄に、「頼むんじゃなかった」と嘆く弟。そして弟は息絶えます。

クロードは、これは神からの試練だと思い、そしてこの子を自分のように正しい人間に育てようと決心します。



・・・まさかの、フロローとカジモド血縁設定!(伯父と甥)
・・・でもその割には、血縁設定はほぼ軽やかにスルー(笑)。弟のことは少し出てきますが、「お前は甥だから」みたいなセリフは全然ありません。(最後のほうで「息子のように思っているよ」とフロローは言いますが、それは別に血縁じゃなくても育ての親のフロローが言ってもおかしくないことですしね)

原作では、そもそもカジモドのほうがジャンより年上です(カジモド20歳、ジャン16歳)。血縁関係はありません。
四季版とアニメ版は、冒頭部分は全く別。アニメ版では、フロローのジプシー狩りと彼の冷酷さが語られます。一方四季版は冒頭で弟を登場させ、冷酷な一面は影を潜めました。真面目で人間的な面を持ったキャラクターです。そのはずなのですが・・・。

出て行った弟のもとへ駆けつけた兄クロードは、優しく弟に一緒に帰ろうと諭します。しかし、弟の子供カジモドの姿を見た時に弟に「悪人は罰を受ける」と言います。この言葉、ちょっと違和感あるんですよね。

「これは罰だ」という言い方ならわかります。それは「今までお前が行ってきた所業に対して」ということだから。でもこの状況でこの表現だと、愛してきた弟を「悪人」と言ってるわけで、そんな言い方はないんじゃないかと・・・。
さらに、引き取ることにした赤ん坊に「できそこない」というひどい名前を与えるフロロー。

アニメでもフロローがこの名を与えるのですが、それは彼の冷酷さをさらに際立たせ、とても効果的な要素になっています。
しかし四季版では、フロローはカジモドを「正しい人間になるように」と思って育てることにしたわけです。何より自分の実の甥ですよ!

そんな名前で「正しい人間になれ」って言われても・・・(困)。(←でもカジモドはいい奴に成長しましたけどね)

繰り返しますが、四季版フロローは神父。こんな名前をつけたら人間性を疑われて、神父としての信頼も将来性もがた落ちじゃないでしょうか。フロローの基本設定はアニメ版とは根本的に違うのに、アニメ版の流れをそのまま持ってきているので、ちょっとちぐはぐな感じになっている気がします(ちなみに原作での名前の意味合いは違います←後述)




フロローの言葉で、もう一つ。
フロローがカジモドに、守ってやるから外へ出るなと諭すシーン。そこでフロローはカジモドにゆっくりこう言います。
「お前は醜い 気持ち悪い」

これって、「お前は気持ち悪い」っていう文ですよね・・・。しぐさや言葉なども含めて「物」に対して使うならわかりますが、一人の人間自身に対して「気持ち悪い」って言うのは、その人の全否定みたいなものじゃないでしょうか・・・。これを聞いた時、心が凍ったみたいに悲しくなりました。しかも、カジモドはその言葉を復唱するんですよね(;;)。

「醜い」というのは、まだ理解できます。単に容姿のことを語ってるだけから。確かにダイレクトな表現ですが、意味的に考えれば「お前は器量よしじゃないけど、その分人に優しくするんだよ」と親が我が子に愛情を持って語ることは今でも普通にありますよね。

原文の英語は「You are deformed, and you are ugly」。
アニメ版にも同じ表現があり、日本語訳は「お前は人と違う。お前は醜い」。
これが意味としても表現としても、ちょうどいいものだと思いますけど、四季版はなぜこの訳にしなかったんでしょうね・・・。字数や語感的な問題なら、「お前は醜い 人とは違う」にすればだいたい解決できたのでは・・・。
今からでもいいので、ここの表現変えてほしいんだけどなあ・・・。



前半、フロローをどう捉えればいいのかわからなくて、正直かなり戸惑いました。特に最初のほうは、フロローは基本的には真面目な人間(カタブツ・レベルだけど)ですが、出てくる言葉(歌詞)が時々それにそぐわないんですよね。

じっくり考えてみて、結局のところ、四季版もフロローの性格設定はアニメとあまり変わってないのかもしれないなと思っています。

四季版のフロローは冒頭で「いい奴」寄りの設定だし、物語の最初でフロローが堕ちてしまうような感じはないんです。だからその流れの通りにフロローを捉えていたのですが、そうすると、時々闇な言葉を発するフロローがわからなくなるんですね。でも、既に最初からダークな性格だと捉えると、そういうフロローの言動がすんなり理解できる気がしました。




四季版でジェアンの話はそれ以降ほとんど出てきませんが、クライマックシ・シーンでフロローがカジモドと言い合っている時に弟の話をします。「弟を愛していた」「でもあいつは邪悪だった、弱かった」と。

この「邪悪」っていう言葉も、ちょっと違和感ありました。「邪悪な心」ならわかるけど、人間自身に対して「あいつは邪悪な奴」なんて普通使いませんよね(ガチな悪魔レベルじゃないかな)。その相手に愛情を感じない言葉なんですよね・・・。

いろいろ考えてみると、四季版では弟の話が出てくると、フロローは時々言葉でネガティブ要素を発揮してる気がします。
原作で弟が示したのは兄の良い一面だったのに対し、四季版では兄を悪い方向へ持っていってる感じですね。
作品によって、いろいろ描き方が違うのはおもしろいなと思います。


(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか [←前] ◆
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四季版「ノートルダムの鐘」感想 (2017)

(1) 関連作品の概要
(2) カジモドの結婚
(3) エスメラルダとクロパンの火花な関係
(4) 神父と判事は似て非なるもの
(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか
(6) 弟が示すフロローの道
(7) カジモドの名前の本当の意味
(8) 陽ざしの中へ


(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか:四季版ノートルダム

様々に違いのあるノートルダム作品群ですが、4作品の中で原則的な共通項というものがあります。(**今からラストをネタバレします。ご注意ください**)

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↑ノートルダム大聖堂内

ジプシー娘エスメラルダを愛してしまったフロローは、自分を受け入れようとしないエスメラルダを死に追いやろうとします。しかし最後にはフロロー自身が死亡。アニメ版のみいわば「事故死」ですが、原作もフレンチ版も四季版も、フロローはカジモドによって殺されます。

しかし、カジモドが育ての親のフロローを手にかける理由はそれぞれ違います。何が違うのか、その違いの理由は何なのでしょうか。

四季版のクライマックス: 
エスメラルダを捉えたフロローは、牢屋で彼女に「自分のものになれば、フィーバスともども命を助ける」と迫ります。
その翌日人々が見守る中、エスメラルダが処刑台にくくりつけられ、フロローがそこで死刑の判決文を読み上げます。「悔い改めれば死刑は免れる」と言い、そして小声でエスメラルダに自分が言ったこと(自分のモノになれ)の返事を問います。彼女はフロローにつばを吐きかけると、怒ったフロローは、そばにいた死刑執行人から松明を取り上げ、自分で火刑用の薪に火をつけます(原作&フレンチ版では絞首刑ですが、アニメ版&四季版では焚刑)。
そこへカジモドが現れてエスメラルダを救い出し、大聖堂の塔にある自分の部屋に連れて行きます。しかし、エスメラルダははかなく死亡。その部屋にフロローがやってきます。

カジモドはエスメラルダの死を「お前のせいだ」とフロローを責め、フロローは「義務だったのだ」と答えます。

私は、ここで「お前」っていう言葉を使うのはちょっと早いなあ、と思っていました。日本語の「お前」って、親や目上の人間に使うのには相当キツイ言葉ですよね。

クライマックスの流れはこの辺りまではアニメ版も同じで、カジモドはここで英語では「You killed her」と言います。これをアニメの日本語版(音声・字幕)は「殺すなんて」「彼女を殺したな」と訳し、絶妙に「you」を翻訳することを避けています。アニメ版翻訳スタッフが、カジモドにここで「お前」と言わせることは少々きつすぎると感じたからではないでしょうか。

フロローが言い渡したのは、一応公的な判決です(原作では裁判の様子も描かれ、別の裁判官が死刑判決を下します)。しかも、フロローが言い渡しただけなのか、彼自身が一人で下した判決なのかさえわかりません。愛する女性に死刑判決を与えた相手を恨みたくなる気持ちはわかりますが、それだけの理由でカジモドがフロローを殺したとすれば、死刑判決を出した裁判官や死刑執行人を殺すのと同じですよね。つまり、死刑判決だけではフロローを殺す理由にはなりません。

ここから後のシーンはアニメにも原作にもない四季版オリジナルの流れで、カジモドとフロローの言い合いが続きます。

フロローは「それはその女が選んだ結末だ」「助けてやることもできたのに」と言います。これは、彼の罪の告白ではないですよね。少なくとも表面上、フロローが言っているのは「彼女は悔い改めるのを拒んだ」「彼女の魂を助けてやれなかった」ということだと言えます。

そんなフロローをカジモドは「邪悪なのはお前だ」「悪人は罰を受ける」と言って、フロローを塔の上から投げ落とします。ほとんどためらうことなく、悲しみを見せる言葉もなく・・・。このシーンの冒頭からずっと、カジモドは怒りや恨みをあらわにしたまま。エスメラルダが死んだ時点で、フロローが悪い奴であることがカジモドの中で確定している感じです。

観客としてはフロローの悪事を見てきているので、そこに大きな違和感があるわけではありません。でも、カジモド自身はいったい何を見たのでしょうか。カジモドはほぼずっと大聖堂内に閉じこもっています。フロローがエスメラルダを脅していたくだりは知りようがありませんし、彼女がいくら自分に優しくしてくれても、彼女が本当に罪を犯していないかどうか、カジモドにはほとんど何もわからないはずです。

・・・では、「死刑判決」以外で、カジモドがフロローを「邪悪だ」と言える出来事はあったでしょうか。

・・・そう、ここで前に書いた四季独自の「伏線」が重要になってくるわけですね!
フロローがフィーバスを刺し、その罪をエスメラルダになすりつけたこと。

怪我をしたフィーバスをエスメラルダが大聖堂に連れてきて、カジモドに介抱を頼みます。その時、フィーバスはカジモドに「フロローにやられた」と告げます。それは、フロローが悪事を働いたことをカジモドが知りうるたぶん唯一の出来事です(原作やフレンチ版で出てくる「フロロがカジモドに誘拐を命じる」とかはありません)。だからこそ四季版制作者は、多少流れに無理があってもこのシーンを入れる必要があったのででしょう。

しかし・・・。
「フロローにやられた」とフィーバスに言われても、カジモドは「本当に?」「どうして?」とその原因や成り行きを聞くこともしません。クライマックス・シーンでも、カジモドはフロローに問いただすこともしません。

カジモドにとって、フロローは正しい人だったはずです。しかも育ての親、血を分けた伯父、唯一の家族。そんな人が人を刺した。本当なのか、なぜなのか、あなたなら本人に問いませんか。

カジモドにとって重要なことのはずなのに、なぜこんなに軽くスルーしてるんだろう・・・。
・・・と考えて、ふと気が付きました。フロローに確認すれば、フロローは絶対「あいつらが嘘を言っているのだ」と反論するでしょう。カジモドはそれに対して言い返せるだけの確たる根拠が何もありません。カジモドはフィーバスたちの言葉でしか、フロローの悪行を知り得ていないのです。

例えばエスメラルダたちが、「ベルサイユのばら」のジャンヌのようなカップルだったとしたら。嘘八百で他人を簡単に騙すような輩なら、本当は悪いことしてフロローに追われて怪我したのに、さもフロローが悪い奴のように嘘をつくなど朝飯前ですよね。

カジモドにとっては言葉のみが判断材料なわけですから、好きな女性と育ててくれた人のどちらを信じるか・・・の違いでしょうか(そりゃあ惚れた女を信じたくなるのはわかるけど)。カジモド目線で見た場合、四季版ではかなり不確かな理由で彼はフロローを殺したと言えるかもしれません・・・(^^;)。

それに気が付いた時、四季版のカジモドがいきなりフロローを「お前」呼ばわりしていた理由に思い至りました。
カジモドにとってフロローを断罪できる明確な根拠はなく、クライマックスのシーンでもフロローが悪事を働いたことは立証されません。つまり、カジモドが冒頭から怒って殺意を抱くレベルでないと、カジモドがフロローを殺す流れにならないのですね。

まあ・・・四季版カジモドは客席でフロローの行動の一部始終を見てた、ということにしておきましょう!!




では、原作やフレンチ版では、この点はどう描かれていたのでしょうか。どちらも四季版と同じく、フロロは聖職者で、最後にはカジモドがフロロを殺します。

原作: カジモドは「聖域」である大聖堂の一室にエスメラルダをかくまいますが、カジモドが不在の隙に彼女はいなくなります。彼女は外に出れば追われる状況なので、自分から外へ出たとは考えられません。そして、その部屋に入る「赤門の鍵」を持っているのはフロロだけ。それに気づいたカジモドは、彼女を連れ出したのはフロロだと確信します。その前にフロロがカジモドにエスメラルダをさらうよう命じたことなどからも、エスメラルダの窮地がフロロの仕業であると思い至ります。そして、広場で処刑されたエスメラルダを大聖堂の塔の上から見て悪魔のような笑い声をあげるフロロ。それを見て、カジモドはフロロを塔の上から突き落とします。

原作でユゴーは、かなり 回りくどい方法で「赤門の鍵」の件を描いています。原作ではこれが、フロロの非道な行動をカジモドに確信させる重要な理由となっています。回りくどい方法でも、ユゴーにとってこれは外せない要素だったのですね。

一方フレンチ版では、フロロがカジモドに直接告白します。エスメラルダを死刑台に追いやったのは自分だと。なぜなら、彼女が自分を拒んだからだと。2時間半程度の舞台のフレンチ版では、さすがに「赤門の鍵」のくだりを入れる時間的余裕はなかったと思います。そして「赤門の鍵」を入れない場合、こうやって明確にフロロに告白させないと、カジモドがフロロの非道に気づくことができないという判断だからかもしれません。最後にフロロは、絞首刑となったエスメラルダを塔の上から見て高笑いをし、カジモドに突き落とされます。

原作もフレンチ版も、フロロの悪事をカジモドが確信する明確な根拠があります。さらにカジモドの目の前で、フロロはエスメラルダの死を見て高笑いします。カジモドがフロロを突き落としたくなったのも、理解できますよね。




実は四季版を見るまで、これらのシーンをじっくり比較して考えたことはありませんでした。

カジモドがどう行動したのか意識しながらじっくり読むと、原作のクライマックス・シーンは本当に素晴らしいです。フロロの悪事を確信したカジモドは、高笑いするフロロを塔の上から突き落としますが、最初フロロは雨どいに引っかかって、必死でなんとか登ろうともがきます。

その真上で、何も言わずに、ただ泣いているカジモド。ここでカジモドは一言も発しません。そして最後にフロロは力尽きて地上に落ちていきます。ユゴーの冷厳な眼差しと筆致に圧倒されていました。うーむ、さすが大文豪・・・。

フレンチ版でフロロが自分の罪を直接カジモドに告げるのは、フレンチ版スタッフが考え出したオリジナルのシーンだったわけですね(気づくのが遅い)。それをフロロが自分で言葉にするだけに狂気や哀しみが増し、カジモドの言葉に怒りとともに悲哀もこめられ、見ていて心に迫ってきます。




四季版で見たカジモドは、どこかかわいさのある、真っすぐなカジモドを体現してくれていました。
クライマックス・シーンで、フロローやカジモドの「哀しみ」を表現したものを見てみたかったなあ。


(4)神父と判事は似て非なるもの [←前] ◆
[次→] (6) 弟が示すフロローの道




四季版「ノートルダムの鐘」感想 (2017)

(1) 関連作品の概要
(2) カジモドの結婚
(3) エスメラルダとクロパンの火花な関係
(4) 神父と判事は似て非なるもの
(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか
(6) 弟が示すフロローの道
(7) カジモドの名前の本当の意味
(8) 陽ざしの中へ


(4) 神父は判事と似て非なるもの:四季版ノートルダム

主人公が誰かというのは人によって意見が分かれるノートルダムですが、原作者ユゴーが一番描きたかったのはおそらくフロロだと思います。**ネタバレあり**

1707.jpg
↑ノートルダム大聖堂内。このステンドグラスは窓になってるんですね。

ノートルダムの物語の核を成すそのフロロの描き方は、作品によって結構異なります。
原作・フレンチ版では聖職者、アニメ版では判事。そして四季版では聖職者に戻りました。

原作でフロロが神父である理由は、「神父である自分が女を愛してしまった苦しみ」を描くためだと言えます。
一方アニメのフロローが判事になったのは、冒頭から赤ん坊のカジモドを井戸に投げて殺そうとしたりする冷酷なキャラクターが神父という役職にそぐわないという判断からでしょう。判事だって悪いことをしちゃだめですが、理性に訴えかけることが仕事の判事と精神に訴えかけるのが仕事の神父とでは、同じことをしても周囲からの視線は同じではないと思います。神父は特に清廉で高潔なイメージを保つことはとても大切ですよね。

さて四季版は、アニメ版の判事設定から原作同様神父に戻っています。冒頭やラストでフロローが人を殺したor殺そうとするシーンはなくなりました。しかし、神父の言動としては「おや?」と思うシーンもいくつか。それは、どういうものでしょうか。




四季版のフロローは真面目でカタブツ。そんな彼が思わずジプシーのエスメラルダを好きになってしまいますが、彼女はイケメンな警備隊長フィーバスと恋仲に。警備隊長として赴任したフィーバスですが、王の許可を得てエスメラルダを捉えよと命ずる冷酷なフロローのやり方に疑問を感じて離反し、逆に警備隊から追われる立場となります(ちなみに、この辺りの流れはアニメ版のもので、原作には離反等の話は全くありません)。

場面は、フィーバスと警備隊の衝突シーンに。エスメラルダもフィーバスに加勢し、警備隊の兵士と戦っている中、舞台の中央にいるフィーバス(近くにエスメラルダ)の背中を、脇から駆け寄ったフロローがナイフでぶすっと刺します。

あ、原作と同じ構図だ・・・♪ (←つい喜ぶ)

原作では、エスメラルダと逢瀬の約束をしたフェビュス(フィーバス)を夜の暗がりの中フロロがついていきます。そして彼女と二人きりでベッドインしようとする寸前のフェビュスの背中を、隠れていたフロロがエスメラルダのナイフを使ってぶすっと刺します。そしてフロロはさっさと逃げ去り、エスメラルダはフェビュスを刺したとして死刑判決を受けることになります。
四季版の流れは原作とは違うのですが、エスメラルダ & フィーバス vs 彼を刺すフロローという構図が同じなのですね。

・・・と喜んだのも束の間、はっと気づいて・・・
・・・・・・いや・・・ちょっと待ってフロロー!

聖職者が公衆の面前でそんなことしちゃダメーーーー!!!!


周囲は騒乱状態で、すぐ近くに兵士たちがいます。舞台の演出は、白色のライトが舞台全体を煌々と照らしていて、見えにくい雰囲気もなく、誰かがフロローの行動の一部始終を見ていても何の不思議もありません。その点は、原作とは全く違います。

いくらフロローがフィーバスを捕らえる命令を下したといっても、彼が直接やるというのは別問題じゃないでしょうか。神父(しかもノートルダムの大助祭)が直接人を刺そうとするなんて、それを人に見られでもしたら、彼の印象に対するダメージの大きさは計り知れません。

おまけに、四季版のフロローはフィーバスを刺した直後、そのナイフを投げ捨てて「エスメラルダが刺したぞ!」と周囲に向かって叫びます。つまり、それはバレてはいけない行動だからということの裏返しですよね。また、そこも全部誰かに見られた場合、罪をエスメラルダになすりつけてるわけですから、もう何も言い訳はできなくなってしまいます。

フィーバスとエスメラルダは原作のようにいちゃついていたわけでもなく、フロローがかっとなって刺してしまったというほどの状況ではありません。四季版では正直、フロローがフィーバスを刺す流れが不自然というか、その理由が弱いのですね。

・・・と思ってその後でアニメを見返していたら・・・フィーバスがフロローのやり方に納得できずに離反するというのは同じですが、フィーバスが怪我をするのは、他の兵士の矢にあたって、でした!!(フロローは指示はするが直接何も手を下していない)

・・・そりゃそうだよね・・・(^^;)。それが自然な流れというもの。
四季版は、原作要素を少々強引に突っ込んでるかな~。でもアニメ版にもない設定を、わざわざどうして?(四季版制作者は原作マニア?)

いろいろ考えてみると・・・これは後々の重要な「伏線」になるのですが、そこには四季版ならではの事情があったと推察します。他作品とは違う、四季版のその理由とは?(長くなるので詳細は後ほど)

せっかくなので、このシーン付近の個人的萌えポイントを紹介しておきますね。

萌えポイントその1:

四季版ではその後、刺されたフィーバスをエスメラルダが救出し、大聖堂のカジモドに預けます。そして、フロローがエスメラルダたちジプシーの根城「奇跡御殿」をガサ入れすると知った二人は、彼らを助けに行こうということになります。

でも、奇跡御殿の場所がわからない。その時、カジモドはエスメラルダからもらったペンダントが隠れ家を示す地図だと気づきます。それは、メタリックな細い棒が数本ずつ縦横に組み合わせられた、てのひら大のもので、中央付近に丸い点があります。それが、隠れ家の場所!

私、2列目中央付近の席だったので、この「地図」をかなりガン見してたのですが・・・。
いやいや、パリの街は迷路みたいでわかりにくかったはず!シテ島らしき中州もないし、カジモドよそんなんで場所わからないぞ~~!

・・・と思ってアニメを見たら、そのペンダントはメタリックではなく紐や木の棒でできていて、「道」の数ももう少し多く、シテ島らしきものもありました。「これなら地図として場所の特定できるかな」とマニアックに思っていた私(笑)。四季版は舞台で繰り返し使うから、耐久性のこと考えてこうなったかな?(たいていの人にはこの地図の細かい部分は見えないでしょうしね)

萌えポイントその2:

二人で隠れ家を探しに行くことになった時、カジモドはフィーバスに「パリの街は全部知ってる」とドヤ顔で言います。

・・・いやいやカジモド、君は大聖堂の塔の上から街を見てただけだよね、数階建ての建物でびっしりのパリの街はちゃんと見えてないよね。カジモドよそんなんでわからないぞ~!
・・・と、突っ込む私。

そしたらその直後のシーン、パリの暗がりの中で、カジモドとフィーバスは「迷ってしまった・・・!」

私は心の中で大爆笑、というか拍手喝采。うんうん、そうだよ、そりゃそうなるよねーー!!
この辺りのシーン、テンポもいいし、フィーバスとカジモドの関係性もいい感じで大好き♪(でも京都公演で少し演出が変わっていたような気が)


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四季版「ノートルダムの鐘」感想 (2017)

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(2) カジモドの結婚
(3) エスメラルダとクロパンの火花な関係
(4) 神父と判事は似て非なるもの
(5) カジモドはなぜ「反逆」したのか
(6) 弟が示すフロローの道
(7) カジモドの名前の本当の意味
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Mew

Author : Mew

2013年来日公演したミュージカル
ノートルダム・ド・パリ」、及びフレンミュージカルを応援中!ノートルダムでオリジナル・グランゴワールを務めたブリュノ・ペルティエも熱く応援中!


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